行くぞ甲子園


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12 April 2026

万朶の花の彼方へー古高黎明期の人々 4  坪内鋭雄(其の2)


逍遥選集 第十二巻(春陽堂 昭和2年)より 坪内鋭雄

(古高黎明期の人々3より続く)

いつの時代でも変わらぬ。筆者にも痛いほど身に覚えのある「独り立ち」の現実問題が鋭雄にも迫った。

「差当りて心を苦しむる事は如何にして自活自営すべきやの問題なり、あはれ我が陋しとせる生計問題も亦遂に我が頭上に落ち来たりし也。」

その折り、友人の幽蘭子(ゆうらんし)が鋭雄を訪ねて来た。彼は

「君のやうに可惜英才を持ちながら徒手(ぶらぶら)遊んで居るのは惜しいもの、且つ男子既に苟くも二十六歳、立派に高等教育を卒りながら、何時までも親の脛を齧って居るが能でもなく、第一君が常に口にする独立独行主義と大に矛盾する、何とか工夫せなければなるまい」にはじまり、

「千里の馬たらんと思ふ学者は先づ自ら千里を走り廻れ、而して伯楽は初めて現れるだろう」などと大いに激励し、さらに、

「運動しないで何の職業が轉げて来るものか、其れには第一に機敏第二には剛情とが必要で、第三には誠実と言ひたいが当節は誠実などは有って良し無くて良し」と言いたい放題、

終いには「少し耳寄りの話があったらば、内密と裏へ廻って、時宜に依っては朋友の利益をも全く転じて自分の利益とする位に、寧ろ厚かましく運動せねばならぬ」と、鋭雄相手に大演説をぶった。

鋭雄は、

「平生のならば、余は忽ち憤然として、一議論してみたき言文あれど、今は我にも一部の弱点あれば覚えず心臆れて、傾聴しぬ。」と、黙して耳を傾けるばかりである。

ところが幽蘭子はその長談義のあとおもむろに、

時に今日一つ好い職業(くち)を聴き込んだが、君、若しや遣って見る心はないか、其れは東北の或中学の教師で、受持学科は地理、歴史、一週間凡そ十七八時間で俸給(さらりー)は四十圓出すといふこと、場所は少々辺鄙だが汽車の便もあり、殊に前にも言ふた通り現時(いまどき)は東奔西走しても中々好い仕事は少し、ーーー(中略)ーーー幸ひ其の中学の校長は僕の知て居る者で、目下校用で上京中だから、君に往く気があらば直ぐにも紹介しやう、意向は如何かね。」と、これまでの説教調から突然転調して、東北の辺鄙な中学の教師の職を推薦し始めたのである。

この辺鄙な中学とは、もちろん「宮城県第三中学校(古高)」のことである。

小説の出だしの、鋭雄のとどまらぬ空想のたくましさと、幽蘭子の説教じみた演説の畳み掛け、それに引き続く突然の第三中学への就職の斡旋、実に計算された作者のユーモアが感じられる。

「兎も角明朝まで待って確答しやうと、其の日幽蘭子を帰して後、つくづく思案するに、固より村学究たらんことは我が好むわざならず、されど他の職業の俗習紛々たるに比べては教育といふ事業の割合に清浄なること、詩人のする世間的職業としては興味多かるべきことを思ひ、又た我が現在の境遇をも思へば、幽蘭子の云ふ所我が意を得たる節々もあるやうに感ぜられ、終いには、恰も我が職業問題の為に二三日來ひそかに心を痛むる折から、偶然かかる相談受けしは、或は天我れに授くるに此の職業を以てせるにあらぬか、などいふ怪しき信仰さへ、我がたゆたへる判断力を多少幇助けて、竟に赴任を肯んずることに決心しつ。」

鋭雄は一晩考えた後、この就職斡旋を受ける決断をし、神田の旅館に其の校長に会いに行った。校長は大いに信用していると言ったのみで、赴任は九月初旬夏季休暇終わる頃とすぐ決定した。


「余は任地に着しぬ、直ちに車を駆りて県立第八中学校と太文字厳しき札を石柱に掲げたる門を入り、受付に名刺を通じて中田校長に面会を申入るるに、、、」

第三中学ではなく、第八中学に変えているが、この石門に見覚えのある諸氏も多かろうと思う。
県立古川中学校時代の校門(明治時代)

2013年の校門 (この太文字厳めしき表札を掲げる石柱は当時から現存している)


続いて、始業式と新任の教師の披露式が講堂で行われることになった。

「講堂は五六百人を容るるに足るべし、正面の天井に接して高き所には、奥深き棚をしつらえて、堅く鎖したる白木の扉には、目眩き真鍮のくぎ(一文字不明)をうち、外部には注連引きわたしたり、畏き御影を安置したてまつれること著く、余は此の神秘なる講堂の入口に立停まりて、先づ正面の方に向ひて敬礼し、、、」
after
明治時代の分校の講堂(古中古高百年史)

当時、鋭雄が初めて第三中学校を訪れ、講堂で挨拶した時の様子が目に浮かぶようである。

このストーリーに従えば、鋭雄の友人(幽蘭子)が第三中学の校長(当時は小林満三郎氏)と知り合いで、その伝手で鋭雄に紹介したことになる。鋭雄はこの小説の最期に、

(こは三十六年著者が古川の中学を辞して帰京せし当時、三島にありて起稿せしものにて、著者自身の教員生活の紀念とも見るべし)

と但し書きを付けており、その言及びこの時代に叔父の逍遥によって提唱せられ隆盛を誇っていた写実主義の影響、もとより第三中学の景観描写他が事実に基づいて忠実に描かれているふうに思えることより、私の考えとしては、この幽蘭子によってはじめて古川との関係が生じたというのは事実ではないかと推測する。つまり、まず鋭雄の赴任があり、その後に鋭雄を通じて逍遥と森慎一郎氏(初代分校主任、二代目が小林満三郎氏)が関係するに及んだのではないか。根拠は希薄で当てずっぽうの域を出ないのではあるが。。。

ちなみにこの教師の地方への赴任とそこで巻き起こるドタバタ劇という作品構成は、夏目漱石の「坊っちゃん」とよく似ているが、「坊っちゃん」は1906(明治39)年の発表、坪内鋭雄の古川版坊っちゃんとも言うべき「当世教師生活」はそれより早く、1903(明治36)年の創作である。

「当世教師生活」の草稿は、
其の1 處世談、2 新任式、3 懇親会 4 土曜会 5ストライキ 6 遠足 7 大瓦解 という構成であったが、今は最後の6と7は欠損していると鋭雄は末文に書いている。その故か、全体を通して、当時の第三中学の生徒の描写はほぼ皆無で、もっぱら古川の料亭、下宿における教師間での丁々発止(泥酔したうえでの)に終始している感はあるが、唯一、5 ストライキにおいて、当時の生徒の様子を垣間見ることができる。

それによれば、各務登九郎という英語教師の授業に、第三年級の生徒六十餘名が一同に無断欠席するストライキを起こした。その理由を首謀者に問うに、

「其の首謀者と目すべき者は同級の生徒の中にも平素学力優等なるもの二三名にして彼等が此の挙を企てたる理由は、第一各務の英語教授は其の発音説明いづれも不精確にして第二には其の採點法が不公平なる故なりとさすがに包み隠さず自白せりといふ、依って会議の上校則に照らして首謀者には二週間の停学その他の者は一週間の停学を命ずることに決定し、、」

・・・成績優秀者らが首謀者で、発音説明いずれも不精確が理由とは当時の古高生は勉学の志いまよりはるかに高かったようである。

(坪内鋭雄(其の3)へ続く。)
















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