行くぞ甲子園


(Please wait. The gallery may take a few moments to display on your device)

21 April 2026

万朶の花の彼方へー古高黎明期の人々 6 鈴木讓三郎氏と星合愛人氏

鈴木譲三郎氏(左)と星合愛人氏(右)

 *私はかつて、古川高校校歌の作詞者である星合愛人教諭について個人的に調べていた。過去の投稿を参照していただきたい。

https://furuko-baseball.blogspot.com/search/label/%E6%98%9F%E5%90%88%E6%84%9B%E4%BA%BA

その過程で、星愛氏が古高を去ったあと、台湾に渡ったこと、州立台北第二高等女学校、台湾私立静修高等女学校の教諭として勤務したことを知ったが、私立静修中学に関してネットにこういう記事がある。


75年越しの卒業証書、90代の日本人女性へ

 台湾北部・台北市にある私立静修中学は1916年、台湾で初めてカトリック教会によって設立された中高一貫校。当初は女子校だったが、少子化への対応と男女平等の考えから、2007年より中等部で男子の受入れを開始。今年1月に名称を静修女子中学から静修中学に改めた。その静修中学で13日、日本人の川瀬富子さん(91歳)に卒業証書が授与された。

 川瀬さんは台湾人の父親と日本人の母親を持つ。1929年に日本の広島県呉市で生まれ、6歳のときに台湾へ渡った。当時台北市内にあった寿小学校(現・西門国小)で学び、卒業後は静修女子中学に進学した。もともと頼トミコと名乗っていたが、戦時中に改姓名して川瀬富子と名乗るようになった。1945年3月、卒業式の最中に空襲があり、全校生徒が防空壕に逃げ込んだため、卒業証書を受け取ることが出来なかった。戦後、川瀬さんは日本に帰ることに。結婚後は夫の仕事の都合でマカオに長く住み、10年前に台湾に移り住んだ。

 静修中学の卒業生である蔡亜璇さんと、国立政治大学で学ぶ日本人留学生の権田猛資さんの仲介により、静修中学は川瀬さんが卒業証書を受け取っておらず、それをいまも残念に思っていることを知り、川瀬さんに対して特別に卒業証書を発行することを決めた。卒業証書は当時と同じ形式で、当時の校長だった鈴木譲三郎氏の名を入れた。妹も夫の母も同校の卒業生で、同校には深い思い入れがあるという川瀬さん。いまでも当時の学費がいくらだったかはっきりと覚えているという。

Taiwan Today:2020年7月14日

写真提供:私立静修中学提供、中央社

---------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------

**上述したようにここに出てくる私立静修中学は、星合愛人氏が教壇に立っていた学校である。さらにここで登場する「鈴木譲三郎」校長だが、星合氏とともに、明治時代の古川中学の教諭だったことが当時の職員録で確認できる。


職員録 明治43年現在(乙)より


職員録 昭和5年

静修中学の校長だったと見られる1945(昭和20)年以前の、昭和5年には州立台北第二高等女学校の校長も務めている。同じく、星合愛人教諭が筆頭教諭として名を連ねていることから、二人は古川中学で知己を得て、同じ時期に台湾へ渡ったものと思われるのだが、「新台湾の人々(大正15)」という書籍にその確証を発見した。

新台湾の人々

”州立臺北第二高等女学校長鈴木譲三郎は、膽力もあり、計劃も立てる才力あり、融通の利く男である。曾て島根縣の女學校時代に、時の學務課長下村充郎に認められ現校生徒ストライキ事件の後を料理す可く招聘された譯である。
彼れは其他紛擾のあつた中學校長にも歴任して相當の成績を擧げた。小學教員上りで今日を成したのだから、平凡でない事が分る。
同教諭星合愛人、同萩原義延の内、星合は鈴木校長が連れて来た。”

鈴木譲三郎氏は、明治3年宮城県小牛田町生まれ、小牛田尋常小学校長、島根縣濱田高等女学校長、州立臺北第二高等女学校長、私立静修女學校長などを歴任した他、台湾では臺北市会議員も務めている。


ところで、星合氏は、旧制第二高等学校(現在の東北大学の前身の一つ)を卒業した後、東京帝大へ進んでいるが、二高の「明善寮小史(昭和14年)」に興味深い記述を発見した。それによれば、二高の尚志会会歌の作詞を公募で募集することになったが、審査の結果、一等は該当者なし、二等が星合愛人氏、三等が金田一京助氏、四等が長田隆氏で、どういう理由か審査員の意向で、四等の長田氏の作品を添削した上で会歌にすることが決定されたという。
明善寮小史(昭和14年)

尚志会全史(昭和12年)

これが、「青葉山萬古にしげく」から始まる二高尚志会会歌であるとのこと。


「青葉山萬古にしげく」
(二高卒業生名簿によれば、長田氏は在学中に「内田」姓に改姓)

ここで忘れてならないのが、三等の「金田一京助」は、どの国語辞典の編纂にもその名を見ることが出来るあの有名な金田一京助、歌人石川啄木の友人でもあり恩人でもあったあの金田一京助であることである。


金田一京助(左)と石川啄木(右)

つまり、星合氏は、採用には至らなかったが、尚志会会歌の公募上は単独1位の作品を書くほどの詩人であり、日本の言語学の第一人者である金田一京助氏を凌駕するほどの語学力を持っていたということである。

その星合愛人氏の傑作の一つが、「宮城県古川高校 校歌」 と言える。

作詞 星合愛人 

作曲 田村虎蔵


心の琴のも張る春は万朶の花の雲

胸の思いも澄みわたる秋は黄金の稲の波

つきぬ眺望の大崎に 基礎を置ける教の舎


嵐をやどす栗駒や雲井に晴るる船ヶ岳

晴に曇にゆるぎなく空を凌ぎて立つを見よ

高きを慕ふわが胸の理想の影とよそふべく


緑を染そめて溶々とはしる荒雄や鳴瀬川

『学の道にすすむ身の 鑑は我』と囁くか

日夜に行ゆきてたゆみなく果ははてなき大海に


其水長く山高き我が東北の大原野

気の秀麗を身に受けて 健児空しくやむべきか

青春今を盛にて 我が胸躍り我が血湧く


明治43年(1910年)制定
























No comments:

Post a Comment