(古高黎明期の人々4より続く)
*坪内鋭雄は、第三中学の教職を辞したあと、日露戦争に従軍、大石橋の戦い(Battle of Tashihchiao)で戦死している。わずか二十七年の命だった。
その才能の早すぎる死を惜しみ、早稲田大学は「早稲田大学百年史」でも、以下の文章を掲げている (https://chronicle100.waseda.jp/index.php?%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E5%B7%BB/%E7%AC%AC%E5%9B%9B%E7%B7%A8%E3%80%80%E7%AC%AC%E5%85%AB%E7%AB%A0)
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三 坪内孤景の戦死
戦争とあれば、勿論、「必要悪」として多くの惨害が生ぜずにはすまず、殊に痛ましいのは犠牲となった戦死者である。校友の戦死者は十名を超した模様であるが、大石橋戦死者中には陸軍少尉坪内鋭雄が発見される。彼は坪内逍遙の甥で、まさに台頭した最も有望な新進文士の一人であったから、世間はその戦死の報に一種のショックを受け、文壇は痛惜して哀悼した。
坪内鋭雄は明治三十二年文学部出の首席。その卒業論文は「宗教に於ける罪悪観念の発展(原始宗教より自律的宗教道徳に至る)」で、今日も一読に値する。卒業後県立中学教師として宮城県に赴任しているが、当時中学は未だ少数しか設立されていない時で、早稲田の卒業生がその教師に迎えられるなどということは、絶えてなかった。坪内逍遙の身内ということも若干左右したろうが、秀才であったには違いない。遺稿集『宗教と文学』に収められたジョルジュ・ジャック・モーリス・ペリシエの『フランス文学思潮』の抄訳のほか、シャーパー・ノールソンの『英文学は如何にして研究すべきか』を換骨奪胎して、引例を日本文学に換えた『文学研究法』の一著に、応用の才の豊かなのを見る。外に、『通俗世界文学』という叢書に『イブセン物語』の執筆を約束しているのも、着眼が凡でない。孤景と号し、青年文士として注目された一人であった。二十七歳で死んだのに、以上の著書を残しているのは、逍遙の後楯に依るとはいえ、本人に力量がなくてはできることでない。
こういう特殊才能のある人士は、軍でも配慮して特別地位につかせ、例えば学苑にも講師として出講した哲学者桑木厳翼などは、同じく出征しても、司令部にいて戦報などを起草しており、日露戦争に名文の戦報の多かったのはそのためと言われる。しかるに坪内少尉は、そういう特典に浴さず、実兵を指揮して華々しく前線に戦闘を続けた。激戦地として先ず全日本の心胆を寒からしめた南山戦を振出しに、得利寺、蓋平と戦って、身に寸傷を負わなかった。しかるに、これも重要な大激戦として数えらるる大石橋において、遂に壮烈な戦死を遂げるに至った。従軍記者としてその地にいた田山花袋の『第二軍従征日記』には、左のような一節がある。
丁家溝に第五旅団本部を訪問した時のことであるが、旅団副官加納中尉(重之)にいろいろ詳しい戦況を聞いて、さて当日の死傷者将校下士の姓名を問うに及んで、自分は愕然とした。少尉坪内鋭雄……と副官は平気で語つたが、不図坪内孤景君がこの第三師団に居る筈と思つた自分の胸には、すぐ戦死されたかといふ感が烈しく浮んだ。坪内博士の甥に当る人ではありませんかと聞くと、何でもそんなことに聞いて居りますとの話。孤景君には自分は二、三度逢つたばかり、別に深い交情もあるのではないが、氏の友人からその性行の一部をも聞いて居り、その著述の二、三をも繙いて、わが明治の文壇、氏の為すあるの士であるのを知つて居るので、自分は一方ならず胸を撼かしたのである。聞くと君は当夜接戦の第三大隊第九中隊に属し、中隊長森大尉指揮の下に、奮戦突撃、勇しい戦死を遂げられたのであるといふ。 (三四二―三四三頁)
なお『日露戦争実記』第二八篇(明治三十七年九月三日発行)を見ると、花袋はその時の戦闘状況を「大石橋観戦記」に更に詳しく報じ、
〔敵弾雨飛の中を、〕三箇中隊が何うやら斯うやら山に取附くと、第一に突撃したのが横山大尉の第十一、私の隊もこれを見て、後れまいと勇んで突撃しました。山は八十米ばかりの極く低き山で、上が平扁く、一面に玉蜀黍畑が茂つて居ましたが、坪内君の遣られたのは、八分目ばかり上つたところに、何うしてか一ところ綿畑がある、その綿畑の中頃で、敵の銃丸を腹部に受けられて指揮の姿勢のままで、どつと前に倒れられました。兵等が驚いて介抱すると、弾丸は腹部に留つたと見えて、その後五分と経ぬ中に絶命されました。軍医の診察では盲管銃創がその致命傷であつたといふことで、実に惜しい将校をと此上なく残念に思つて居ります。遺骨は其儘兵が麓に運び、翌日勉汗溝西方の高地に火葬しました。 (六〇頁)
と、その時の中隊長の話を直接通信している。
すぐ功五級の金鵄勲章を授与せられ、中尉に昇叙されたぐらいで、世間常識から言えば、母校の名誉を輝やかしたものなのに、大学はどちらかと言えば、ひっそりとして音なしの構えだった。これは大学の日露戦争に対する姿勢がこうであったのだ。別に安部・浮田の非戦論の影響を受けたわけではないが、日清戦争の時のような狂熱振りは示さなかった。坪内逍遙にとっては実子のように可愛がった親身の甥のことであり、自分が手塩にかけて育てあげた秀才のことであり、殊に実践倫理の研究に没頭している真最中であった。藤村操に対しては長講二時間に亘る「自殺論」を講じ、星亨の横死についても同じく長講二時間の「刺客論」を発表し、時事に敏感に反応した坪内であるから、この時まさに戦死に倫理的意見を開陳して当然と思うが、全く口をつぐみ、学友達が遺稿集を編むに当って、僅かに短文の序を寄せ、世間には多くの戦死者があるのに、これは分に過ぎたことだとのみ言うに止まっている。
坪内鋭雄の同級の友で、論文を出さなかったために卒業できなかった児玉伝八(花外)は、後年、東洋のバイロンと言わるる詩人となるが、その「白雲」と題する弔詞の中に次の一連がある。
三歳、早稲田の学窓に
詩筆研きし一秀才
剣は残りて人むなし、
花咲き鳥の謡ふとて
いつか聞かんや君が歌。 (『宗教と文学』 三八七頁)
また樗牛亡き後の、赤門派の文壇を背負って立つ概のあった大町桂月は、「彼に剣の歌あらば、日本のケルネルとなりたらむものを」(『文芸俱楽部』明治三十七年九月発行第一〇巻第一二号一八九頁)と撫然として述べている。
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*第三中学を辞してわずか一年で戦死したことにより、坪内鋭雄氏にとって、古川での教師体験のみが「教師生活」ということになった。彼の出版した「文学研究法』(冨山房、1903年)および彼の死を悼んだ友人、児玉花外(明治大学校歌作詞者)、中島孤島により「坪内鋭雄遺稿集」として出版された「宗教と文学」(文明堂、1905年)、そのいずれも当時としては質の高い文学評論で、もし若くして戦死することが無かったならば、叔父同様に日本文学史にその名を残す存在になったのではないかと思われる。
最後に、第八中学の「就職演説」、これが実に6ページに及ぶ大演説で、彼の言によれば、腹案なく生徒の面をしばらく見ながら脳裏の秩序整えるを待って述べた、とのことだが、ここに坪内鋭雄という文学士の学問追求の心構えやら何やら散見されるようにも思えること、なにより記念すべき「宮城県第三中学校」で実際に行われた演説である可能性があること等を鑑み、その全文を掲載しておこうと思う。
「諸君、私は唯今御紹介になつた通り吉井輝三郎であります。さて凡そ我々が事物を観察するには、直覚と申して、例へば燐火(まつち)を摺るとパツと明るく火が燃え出るやうに、一見して事物の真相を明らかにすることがあり、又推理とか分析とか申して、例へば土中から掘出した金剛石を長い間磨きたて磨きたてて後、漸々其の光が出て、竟には夜行の玉ともなるやうに、段々研究した後に事物の真相を明らかにすることがある。
ところが世間の事柄は、直覚的に強く感じたことが、推理的分析的に考へ得たことよりも、却って一層真相を穿つことが多くある、例へば人間の顔である、お互いに交際して居る人々でも、他人の顔を平生さうしげしげと細かく見る場合は少ないから、加藤くんの顔はあんな顔、鈴木くんの顔はこんな顔と、大概は直覚的総括的に見知つているばかりである、そこで今度その加藤なり鈴木なりの顔に近寄つて、五六分間も善く注意して、研究的に見詰めて居ると、妙にその顔が平生見る顔とは違って来る、しかし退いて考ふれば、平生直覚的に見た顔が、矢張り真正(ほんとう)に本人(そのひと)の顔を現して居るので、分析的に見た顔は、加藤には幾個(いくつ)黒子(ほくろ)があつた、鈴木には何本皺があつたなどと、却つて一部分の缺點(あら)ぐらゐが目につくことが多い、私は事物を観察するに當たつて、かくの如く黒子が幾個ある、皺が何本あるかと、細かく分析的に研究することも固より大に必要だと思ふが、同時にまた直覚を貴ぶものである。
實は私は今朝東京から當地に着き、図らず初めて諸君の顔を見ましたが、私は一見して諸君の顔付が頗る前途有為活気に満々て居るやうに、直覚的に観察しまして、甚だ心強く思ひ、私が今後長く諸君と相見ゆるに至つたのを、窃かに大なる幸福とする次第であります。乃(そこ)で私は受持学科等に関しては、追々お話することにして、今日は聊か教育上について、私の考を一言申し述べて新任の辞に代へたいと思ひます。其れは教育上の真意義といふことで、言葉は大層堅くるしいが畢竟(つまり)私は何を為さんとして此の学校に来たかといふ問題と、諸君は何を為さんとして学校に来るかといふ問題とに過ぎませぬ。
私は何を為さんとして来たか、言ふまでもなく教師として来たのであるが、教師には二つの重な役目がある、一は教授即ち諸君に知識を授くることで、一は強化即ち人格品性を作つてゆくことである、教授の點に於ては、私は固より学識猶浅く、諸君から見れば矢張り学問の切賣といふ譏(そしり)もあらうが、兎に角く諸君に対しては一日の長あると思ふによつて、切売でも決して構わないから、成るべく新鮮な健全な知識を供給し、諸君が学問を研究する水先案内、旗持、希臘(ぎりしあ)のソクラテースが所謂知識界の産婆となつてゆく考である。
次に教化といふ點については、實は私は爰(ここ)に多くを言ふを欲しませぬ、當今我邦に幾千といふ教育諸先生は、勿論皆偉い方々で随分立派な教化の方針を口にする方々もあるが、其れで充分に教化を行つて居らるる人が、果して幾許程ありませうか、私の先輩たる教育家すら、そんな有様であるのに、私が、神ならぬ身の不完全なる私が、諸君を善く教化しやうと宣言するは、馀りに嗚呼(をこ)がましい譯で、唯此の點に就いては、私は今後及ぶ限り自ら勉めると同時に、諸君各々自ら省み、また私に缺點があらば其れを遠慮なく注意して下すつて、恰も此の学校を一家庭とし、我々は互に兄弟となつた如くにして、協心同力、以て完全なる人格に到達せんことを努力したいと希ふのであります。
此に於て、前に申した、諸君生徒たるものは何を為さんとして学校に来るかといふ問題も、亦随つて解釋せらるるのである。一言でいへば諸君は教育せらるる為に来るのである、然し教育せらるるといふと、専ら受動的に、先生の教を其の儘受け容るるに過ぎないやうに聴こゆるが、其れでは未だ未だ真に教育せらるるのでは無い、諸君は必ず又能動的でなければならぬ、即ち自ら己れを教育し、延いては朋友若くは教師をすら教育する覚悟がなくてはならぬ。例へば、一部の歴史を教へられたらば、先生の講義を唯々嫌々聴き流したばかりでなく、其の講義をば我が知識の基礎として、更に自ら或は参考書を読み或は沈思瞑想し、深く究め静に考へ、此の如くして、疑はしき廉(かど)は飽まで研究し、場合によつては先生の講義以上に説き立てて見るも善いと思ひます。
歴史は学問知識の上のことであるが、品性修養の上に就いては、猶更さういふ覚悟が必要である。教師の学校で説く道徳は多くは、完全圓満を期した道徳であるが、しかし其の教師自らの行為は、必ずしも其の説く所と一致しないことが世間には間々ある、言行一致せざる點を見て、生徒もまた往々其の言行の不一致を真似やうとするものがあるに至つては、實に大なる誤謬で左様な生徒は卑屈な根性だと評さなければならぬ而して其れが所謂生徒が受動的に陥つて能動的ならざる大弊害である。
何となれば教師の説く道徳は既に完全圓満を期した道徳であるのに、一般世間には完全圓満なる人物が極めて少いと同じく、教師とても完全圓満なる人物の少いは不思議でない、随つて細かく見れば言行不一致も出て来やう、然し、尠くとも教師自ら其の缺點を省みて、日夜汲々としてセルフイムプルーヴメント即ち自分を善に改めてゆくことに努力して居るならば、生徒は先づ其の心掛をこそ学ばねばならぬ、此れは単に受動的に教育せらるる生徒でも必ず心得べきことである。若其れ一歩進んで言へば、教師も人なり、我も人なり、教師も生徒も諸共に完全なる人物たらんと努力しつつある間には、生徒の天分と勉強とが或は教師よりも優って居る為に、生徒の方が早く完全に近づいて来ることが有るかもしれぬ、否、生徒は寧ろ教師よりも早く完全に近づいて遣らうといふくらいの元気がなければならぬ。
此れを運動會の競争に譬ふれば、決勝點は完全圓満なる人格である、其れに到達せんとして、教師も走る、生徒も劣らじものと走る、しかし教師は大人だけれども中には気ばかり一生懸命焦燥(あせ)つても足の弱い人もあり、生徒には、足の達者な人もあり、到頭生徒のほうが早く決勝點に著くことがあると同様である。是れ所謂藍より出でて藍よりも青しで、教師もさういふ生徒が出たならば、初めて教育した甲斐があり、又さういふ人物が、一人でも多く出ることは、社會の活動の為に此の上もなき幸福である。
此ふいう覚悟で進めば、假令萬々一教師の言行が全く一致しないやうな場合ですら、我れは其の長を取りて短を顧みずといふ意気込で、生徒たるものの人格はおのづから益々高まつて来ると思ひます。今や世界の人心は目覚しく活動飛躍する時代で、十七八世紀の封建時代に於ける如き卑屈因循の氣象は全く無勢力となつた、是れから社會に立たんとする者は、何事によらず能動的に我れを推し進めてゆく必要がある、されば諸君は学校生活の間から、学問上にまれ道徳上にまれ、常に能動的活動的に教育せらるるといふ氣象を有たれんことを希望するのである。要するに将来お互いに熱心誠意を以て、教へつ又教へられつして、どうか社會國家の為に、幾分の貢献をするやうになりたいものだと思ひます。是れを初対面の御挨拶といたします。」
これを聞いて、当時の古高生はどう反応したのか?
(我が演説は、初年級の生徒には抽象に過ぎて解し難かりしにや、演説の最中、前列の方にて十四五歳の児童三四人、欠伸を噛み殺して聴き居たりしが、余が壇を降りて席に復するや、満堂一時に哄(どよ)めきて私語(ささや)き初めたり。顔珍しき新任教師の言語容貌風采を批評し、斯かる折に敏くも其の特癖などを捉へて、彼のあらゆる教師に無くてかなはぬ綽名(あだな)を付くること、我が昔の経験もあれば、或は彼等も余の為に新しき固有名詞を作りつつあるにや。既にして、桑田教諭はまた立上りて解散を告げ、生徒の人並立つて退出するありさま、寄席の終(は)ねたるが如し。)
・・・此は確かに「真の古高生」の面影ありき。

















































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