古高野球部関係記事

 

【伝える ある震災遺族の5年(1)】(産経ニュース)

「抱きしめてあげればよかった」 銀行の対応に募る不信
 「息子の部屋にあるものが、何もかもいとおしく思えるんですよ」
大学の卒業式に出席し、長男の健太さんを囲む田村さん夫妻=平成20年3月22日、東京都千代田区(田村孝幸さん提供)
 東日本大震災の津波で七十七銀行女川支店(宮城県女川町)の従業員だった長男、健太さん=当時(25)=を亡くした田村弘美さん(53)。大崎市にある自宅2階の一室でつぶやいた。
 首都圏にある専修大を卒業した健太さんは平成20年4月、同行に入行した。父、孝行さん(55)は単身赴任中。大学生だった妹も東京で暮らしており、配属後2年間は弘美さんと実家に2人。始業より1時間早く仙台駅に到着し、支店近くの喫茶店で新聞に目を通すのが日課だった。「あの気丈な健太がしょげるくらい仕事は大変そうだったけど、誇りを持って打ち込んでいました」支店で窓口業務に従事しながら、研修所では資格取得に向けて勉強する日々が続いた。「3年は頑張ってみなさい。誰もが通る道だから」。弘美さんは健太さんを励まし続けた。23年3月6日、入行3年目で女川支店に異動していた健太さんは、実家へ帰省していた。石巻市の単身寮で暮らしていたが、2週間後には寮を出て同市内のアパートに引っ越す予定で、交際中だった女性も両親に紹介するつもりだった。「また来週ね」。その日の夜、夫妻は寮へ帰る健太さんを玄関先で見送った。
 そして、あの日-。健太さんが勤務中だった女川支店を大津波が襲った。支店には帰宅した1人を除く行員13人がいた。夫妻は「支店の近くには山がある。そこに避難しているはずだ」と信じていた。だが、翌日も翌々日も安否はわからない。一家は仙台市青葉区の同行本店へ向かった。「支店長から『屋上に避難する』とだけ連絡を受けただけで、その後は分かりません」。孝行さんが本店1階守衛室から内線電話をかけると、電話口の人事担当者はそう告げた。「なぜ下まで降りてきて直接説明しない」。その対応に、怒りをぶちまけた。3月15日、銀行側が夫妻宅を訪ねた。人事担当者は「従業員らを屋上に避難させた支店長の判断は、同行の災害対応マニュアルに沿ったもの」と説明したが、謝罪は一言もなく、夫妻の不信感は募っていった。その後、夫妻は自力で健太さんを捜そうと、長靴を履いて現地に入った。支店のすぐ近くに高台があったこと、同行した銀行幹部がスーツ姿だったことが強く印象に残った。震災から10日後、氏家照彦頭取が夫妻の自宅を訪れ、経緯などを説明した。「目を見て話しろ」。強い口調で言い放ったのは、健太さんの妹だった。怒りに震えていた。それ以降も夫妻は週1回は女川を訪れ、健太さんを捜した。「どこかで生きている」。一縷(いちる)の望みが支えだった。
 震災から半年後の9月26日早朝。支店から約3キロ離れた海上で健太さんは見つかった。裏側に「田村」と記されたズボンにワイシャツ、ネクタイ姿だった。安置所には身に付けていた服などが並んでいた。「健太が初めて作ったスーツだ」。弘美さんは一目で気付いた。「息子さんのものでしょうか」。警察官の言葉に、声を上げて泣き崩れるしかなかった。「抱きしめるなり、手を握るなりしてあげればよかった…」。弘美さんは今も悔やんでいる。      
 東日本大震災から5年。最愛の息子に先立たれた両親が、この5年をどう生きてきたのかを追った。

【伝える ある震災遺族の5年(2)】(産経ニュース)

息子が誇りにしていた東北有数の大企業を相手に訴訟…それは断腸の思いだった

「同じこと繰り返さない会社に」
 「最高裁から連絡があり、上告は棄却されました」

仙台高裁が控訴審判決を言い渡すのを前に、原告遺族らと裁判所に入る田村健太さんの母、弘美さん(右)=平成27年4月22日、仙台市青葉区(岡田美月撮影)
 震災5年の節目まで1カ月を切った先月18日の夜。勤務先から帰宅中だった田村孝行さん(55)の携帯電話に、代理人弁護士から連絡が入った。原因究明を望んで銀行を相手取って損害賠償を求めた訴訟はこの日、遺族側の敗訴が確定した。「審理してほしかった。これが司法の限界か…」 「支店から走って1分しか離れていない高台があるにもかかわらず、なぜ高台に逃げずに支店屋上にとどまったのか」 平成23年12月、田村さん夫妻を含め9遺族で被災者家族会をたち上げ、銀行に原因究明や謝罪、支店解体の取りやめなどを求め続けた。銀行からは、調停や裁判外紛争解決手続き(ADR)などの提案を受けたものの、家族会の要望に対する十分な回答は得られなかった。それから半年後、夫妻が見つめる中、支店の解体工事は始まった。「このままでは、健太の死が何もなかったことにされてしまう」。こうして夫妻は他の2遺族とともに、震災から1年半後の24年9月11日、提訴に踏み切る。銀行を相手取って原因究明と約2億3500万円の損害賠償を求めたものだった。 「息子が誇りにしていた銀行を相手に訴訟を起こすのは断腸の思いだった」孝行さんは振り返る。「裁判なんてしても息子は帰ってこない」「どうせ負ける」-。そんな心ない言葉を浴び、東北有数の大企業を相手にする重圧ものしかかった。それでも、「声を上げなければ防災対策は改善できない。同じことを繰り返さない良い会社になってほしい」。そんな強い思いが背中を押した。
 《女川支店では地震直後、支店長の指示で従業員13人が2階建て支店屋上(高さ約10メートル)に避難。津波にのまれて支店長ら12人が死亡または行方不明となった。町指定避難場所の堀切山は支店から約260メートル先。同行のマニュアルには堀切山が避難場所と指定されていたほか、21年に同店屋上も追加された。26年2月の1審仙台地裁判決は「屋上を超える巨大津波を予見することは困難」と指摘。「支店長の判断が不適切だったとはいえない」として遺族側の請求を棄却した。控訴審でも、遺族側は町の指定避難場所だった堀切山に逃げるべきだったと主張したが、27年4月の2審仙台高裁判決も遺族側の控訴を退けた。そして、今年2月には最高裁第2小法廷が1、2審判決を支持、遺族側の上告を棄却。遺族側の敗訴が確定した》 夫妻は先月20日、仙台市内で弁護団と記者会見を開いた。「銀行にはきちんと向き合ってほしかった」。田村さんの妻、弘美さん(53)は悔しさをにじませた。「これ以上悲しむ家族を作ってほしくない。銀行は再発防止に努め、慰霊という形で息子に手を合わせにきてもらいたい」孝行さんは、日航ジャンボ機墜落事故やJR福知山線脱線事故の例を挙げ、両社の社員への安全教育や遺族との向き合い方について触れ、「銀行は行員に女川支店の反省や教訓を伝えてほしい」と強調。原因究明や管理者に対する罰則などに関して、制度化の必要性を訴えた。「5年間は本当にあっという間。ご縁のある皆さんが背中を押し、支えてくれたおかげ。精いっぱい戦い抜くことができた」

【伝える ある震災遺族の5年(3)】(産経ニュース)

神戸、御巣鷹山、息子の母校、そして女川…「絶対に忘れさせない」の思いで語り継ぐ

惨事なぜ起きたのか追及

阪神大震災の慰霊法要に参加した田村さん夫妻。津波の犠牲となった息子の健太さんの名が書かれた竹灯籠を見つめる=1月17日午前5時38分、神戸市長田区の御蔵北公園(頼光和弘撮影)

 1月17日の早朝、神戸市長田区の「御蔵(みくら)北公園」。100本を超えるろうそくの灯りが揺れる中、全国の僧侶らによる法要が執り行われた。そこには、田村孝行さん(55)夫妻の姿があった。「絶対に忘れさせない。これからも語り継いでいきます」平成7年の阪神大震災が発生した午前5時46分、犠牲者に祈りをささげた妻の弘美さん(53)は決意を新たにした。「ただただ感謝。ここまでしていただいて…。健太が生きていたときのことを伝えることができた」法要の後、夫妻は阪神大震災の犠牲者遺族と面会。その遺族や長田区の地元住民らが協力して公園近くで開いた写真展には、津波の犠牲となった息子の健太さんの写真も加えられた。孝行さんは健太さんの就職活動中、「地域密着で地元に貢献する企業が良いのでは」と助言したことがある。写真展に飾られた健太さんの姿は、七十七銀行南町通支店(仙台市青葉区)に勤務していたとき、大崎八幡宮で行われた「どんと祭」の裸参りに白装束で参加する姿だった。 「『宮城に帰ってきてほしい』という親を思う気持ちがあったのだろう」大学生活を東京で過ごした健太さんが七十七銀行を就職先として選んだ理由についてこう語った孝行さんは白装束の健太さんの写真を見つめながら、「親孝行の息子を誇りに思う…」と目頭を熱くした。夫妻は昨年8月、発生から30年を迎えた日航ジャンボ機墜落事故の犠牲者を慰霊しようと、遺族と御巣鷹山に登った。11月には、初めて健太さんの母校である専修大法学部(東京都千代田区)で、津波訴訟の原告側弁護団とともに企業の防災や津波訴訟に関する公開講義に登壇した。全国を飛び回りながらも24年の夏頃からは、健太さんが犠牲となった女川支店の跡地での語り部活動も続けている。そんな夫妻のひたむきな活動を聞き、阪神大震災の法要で面会した犠牲者遺族の一人の女性がこう声をかけてきた。「お二人はすごい。私は20年以上たったいま、ようやく話せるまでになったのに…」後日、弘美さんは語り部を始めたころを振り返り、その胸の内を明かした。「悲しいのだけれども、悲しみに浸る余裕もなく、『なぜこんな惨事が起きたのか』を追及し、話して伝えなければならないという一心だった」体力や精神の限界が来る前にやり遂げなければならない-。そんな焦りもあった。「健太の命は大きな役目を果たした。また、健太に会ったとき、『世の中に役立ててきたからね』と言えるようにやっていきたいんです」


【伝える ある震災遺族の5年(4)】(産経ニュース)


津波訴訟を起こした遺族らが集まった 「企業の結果責任を追及する。遺族の輪を広げたい」

「企業防災の在り方考えたい」フォーラムで決意新たに

健太さんの遺影を手元に提訴に至った背景などを説明する田村弘美さん(左)=3月5日、仙台市青葉区(岡田美月撮影)

「組織の管理下で行動した子らがなぜ帰らぬ人となったのか」「その真相が知りたい」「子供たちに心から謝罪してほしい」-。3月5日、津波で長男の健太さん=当時(25)=を亡くした田村孝行さん(55)、弘美さん(53)夫妻は、仙台市青葉区の仙台弁護士会館にいた。企業や組織の防災について議論するフォーラム「東日本大震災から学ぶべきもの」。会場には約150人が詰めかけ、聴衆の中には震災で息子を亡くした女性や県内の地方議員の姿もあった。主催は田村夫妻ら七十七銀行女川支店の被災者家族会。「5年間を振り返り、震災から学んだことを後世に残し、企業や組織における防災の在り方を考えたい」と孝行さんは訴えた。フォーラムには夫妻の呼びかけで、私立日和幼稚園(宮城県石巻市)、市立大川小(同)、町立東保育所(山元町)、常磐山元自動車学校(同)をめぐる津波訴訟を起こした原告遺族らが集結した。「どこかで生きていると必死に探している段階で、銀行の宣告は衝撃的だった」。遺族らとともに公開討論の場に登壇した弘美さんは切り出した。《死亡が確認されたか、行方不明のまま労災保険の手続きを取った場合、平成24年3月31日付で死亡退職とする》 「これが家族に対する銀行からの説明だ。かけがえのない命を奪われ、悲しむ家族への配慮の欠片もなかった」と弘美さんは悔しさをにじませる。説明会翌日の23年9月26日、健太さんは支店から約3キロ離れた海上で見つかった。これに対し、日和幼稚園から送迎バスに乗り犠牲となった佐藤愛梨ちゃん=当時(6)=の母、美香さん(41)も「娘に心からの謝罪をしてほしかった」と声を絞った。「助けたかったが助けることができなかったと、心から謝罪してくれたならば私は裁判という方法はとらなかった」。弘美さんの思いは、他の津波訴訟の原告遺族らと同じだった。フォーラムに際し、こんなコメントが寄せられた。田村さん夫妻と親交のある8・12連絡会(日航ジャンボ機御巣鷹山墜落事故被害者家族の会)の美谷島邦子事務局長のものだ。
 《被害者・遺族は、個人の罪を問いたいのではないのです。ましてや、補償等が目的ではありません。(中略)事故の教訓を生かしてほしい。何を最優先しなければならないかを企業は心に刻んでほしい。(中略)そして、企業防災の向上について発信し、語り継いでいくことが、地域の人々の信頼を得ることにつながると思います》 健太さんの名前が入った手作りの竹灯籠を贈った神戸市須磨区の魚住哲也さん(74)も夫妻の気持ちに寄り添う一人だ。平成7年の阪神大震災で自宅にいた母、秀子さん=当時(76)=を失った。魚住さんが言う。「震災は時間がたつにつれ風化するというけど、遺族の心の中には苦しみや悲しみはいつまでも残る。21年過ぎた自分の気持ちも変わらへんのやから…」 常磐山元自動車学校で勤務中に被災し行方不明となった長女、真希さん=当時(27)=を探し続ける大久保三夫さん(63)も「田村さんがいなかったら僕らはきょうここに来ていません」と言い切る。日和幼稚園に通う春音ちゃん=当時(6)=を亡くした西城靖之さん(47)も「家族同士思いは一緒。同じことは二度とあってはならない」と力を込める。
 孝行さんが決意めいた表情でフォーラムを締めくくった。「企業、組織の結果責任は追及し、果たしてもらう。遺族の輪を広げ、今後も信念を持って進めたい。大切な命に代わり宣言する」

【伝える ある震災遺族の5年(5)】(産経ニュース)

健太いるかなって」…息子の部屋から夫妻の一日は始まる

結婚を約束した女性との写真
 田村健太さん=震災当時(25)=が幼少期、宮城県東松島市の矢本海岸へ家族で遊びに訪れたとき、父の孝行さん(55)と浜辺で撮影した写真がある。それとは別に、健太さんが亡くなる1年余り前に同じ場所で撮った写真もある。結婚を約束した女性と一緒だ。平成27年9月19日。健太さんの誕生日であるこの日、夫妻は同県栗原市内の飲食店に招かれていた。並んだ料理の中にミートソーススパゲティ。母の弘美さん(53)が振り返る。「健太の大好物だったから、今でも誕生日には家で作るんですが、この日は特別に用意してくれていたんです」。ミートソーススパゲティを用意していたのは、健太さんと結婚を約束した女性。彼女は勤務先の飲食店に夫妻を招き、健太さんの30歳の誕生日を一緒に祝ってくれた。同県大崎市の田村さん夫妻の自宅には、健太さんの写真が居間の壁を埋め尽くすほど飾られている。「捕手一筋だった」健太さんがキャッチャーマスクを外し、投手に向かって大声で叫ぶ姿を写した写真を見ながら孝行さんはつぶやいた。小学3年から大学3年までの12年間、野球に打ち込んだ。「高校野球に特に強い思い入れがあったのかしらね」と弘美さん。大学時代の軟式野球部の集合写真では、チームメートが深緑色の帽子を被る中、一人だけ高校時代の野球部の紫色の帽子を被っている。27年7月11日、仙台市民球場のライトスタンドに健太さんが愛用した紫色の帽子を被った孝行さんの姿があった。この日は夏の甲子園出場をかけた高校野球の県大会が行われていた。スタンドの最上段には紫色の横断幕が掲げてある。夫妻が震災翌年の24年に健太さんの母校である県立古川高校の野球部に贈ったもので、白字でこう記してある。「ONE FOR ALL 憧れの甲子園へ とどけこの想い!! いざ出陣!!」。健太さんが野球帽のツバ裏に書き込んでいた言葉だ。「健太ならどう戦うか」。孝行さんが試合の行方を見守る中、古川は第2シード校の柴田に9-7で勝利した。会場には健太さんとともに甲子園を目指して汗を流したチームメートも駆けつけていた。孝行さんは「帰ったら健太に、同級生と一緒に応援して母校が勝ったと伝えたい。きっと喜んでくれるだろう」とほほ笑んだ。 写真が飾られている1階の居間から廊下に出る。そこから階段を2階へ上がったところが健太さんの部屋だ。扉はいつも開けてある。夫妻は毎朝、2階の寝室で起床すると、健太さんの部屋の前を通って1階の居間へ下りていく。「毎朝ちらっとのぞくんですよ。健太いるかなって」
 今朝もまた、この部屋に目をやる。夫妻の一日が始まる。=おわり  
 
 この連載は岡田美月が担当しました。


https://news.nifty.com/article/item/neta/12245-080769/

東日本大震災で失ったもの 二度と被害をくり返さないため講演活動を行う夫婦のストーリー(@nifty news)


番組スタッフが取材した「聴いて思わずグッとくるGOODな話」を毎週お届けしている【10時のグッとストーリー】
きょうは東日本大震災の津波で、銀行員の息子さんを亡くしたことをきっかけに、日航ジャンボ機事故の遺族とも連絡を取り合い、企業の安全意識向上のため、語りべとして講演活動を行っている夫婦のグッとストーリーです。
講演活動を行う田村孝行さん(右)と弘美さん(左)
東日本大震災で、未曾有の大津波に襲われた街・宮城県女川町。女川まで50キロほどの大崎市に住む、田村孝行さん(57歳)と弘美さん(55歳)は、当時25歳だった長男の健太さんを、震災で亡くしました。
孝行さんは言います。「息子は、銀行で勤務中に地震に遭い、津波にのまれたんです…」
仙台あおば祭りに参加したときの故・田村健太さん(震災当時25歳)
健太さんは東京の大学を卒業後、「地元に貢献する仕事をしたい」と、仙台市に本店を置く地銀、七十七銀行に就職。漁港に隣接する女川支店に配属となり、融資担当として多忙な日々を送っていました。
そんなとき、地震に遭遇。人々が町の指定避難場所の高台に避難するなか、健太さんと上司、同僚13人は、高さ10mほどの銀行の屋上に避難しました。その後、屋上をはるかに超える巨大な津波が襲来。健太さんを含む4人が命を落とし、8人が今も行方不明のままです。
健太さんが勤めていた「七十七銀行」の被災写真(中央の建物)
1人だけ奇跡的に生き残った人の証言で、屋上に避難したのは銀行側の指示だったことがわかりました。走れば1分の距離に高さ50mの高台があったのに、なぜ屋上に逃げたのか? 今なお、理由は分からないままです
被災後、銀行内の机の中で見つかった名刺など
「息子は『まだ時間もあるし、高台に移ったほうがいいのでは』と言っていたそうです」と悔やむ孝行さん。
「息子の死を無駄にしないためにも、しっかり検証して、二度とこういう悲劇が起こらないような取り組みをしてもらいたい……そんな思いから、家内と企業の防災意識を高めるための講演活動を始めたんです」
講演活動をする田村夫妻
週末になると女川へ出向き、現地での「語りべ」と、全国での講演活動を行っています。
企業の防災意識を高めてほしいと、全国で活動しているお二人
そんなある日、孝行さんは一冊の本に出逢います。85年8月、520人の犠牲者を出した日航ジャンボ機墜落事故の遺族有志でつくる「8・12連絡会」代表・美谷島邦子さんが活動をまとめた本でした。

美谷島邦子さん(写真中央)と一緒に写る田村夫妻(御巣鷹にて)
当時9歳の次男・健(けん)さんを亡くした美谷島さん。野球が大好きで、高校野球を甲子園で観るため一人で飛行機に乗り、大阪の親戚宅へ向かう途中、事故に遭ったのです。
美谷島さんたちは日本航空に対し、粘り強く安全対策の徹底を求め続け、はじめは耳を傾けなかった日航側も、事故から20年が経った2005年、事故が多発したことから姿勢を大きく変えました。
それまで非公開だった墜落した機体の一部や遺品などを展示し、日航社員の安全意識を高めるための研修施設「安全啓発センター」を羽田空港内に設置すると発表。過去の様々ないきさつを乗り越え、美谷島さんら連絡会のメンバーも、社員研修に講師として招かれるようになったのです。

御巣鷹山で撮られた集合写真。「8・12連絡会」など、地道な活動で安全対策を啓発し続けている
地道な活動で、企業側を動かした美谷島さんたちの活動に心を打たれた田村さん夫妻はすぐに連絡を取り、交流がスタート。
実は、田村さんの息子さん・健太さんも大学まで野球をやっており、美谷島さんの息子さんと同じ 、健康の「健」の字が名前に付いています。「何かの縁ですね」という弘美さん。

野球が好きだった美谷島健さんのために届けたボール
田村さん夫妻は毎年8月、美谷島さんと墜落現場の御巣鷹山へ慰霊登山を行っています。
今年は健太さんが使っていた野球のボールに、メッセージを書いて供えました。いっぽう美谷島さんも、女川に田村さんたちが建てた慰霊碑を訪れるなど、横のつながりが生まれています。
孝行さんは言います。「女川に行くと、ここに健太はいたんだな、と思います。息子の思いを伝える意味でも、企業の防災意識が変わるよう、語りべとして活動を続けていきたいですね」
八木亜希子 LOVE&MELODY
FM93AM1242ニッポン放送 土曜 8:00-10:50

2013.7.15 毎日新聞


2013.2.13 毎日新聞


育成功労賞に男沢さん 古川工などで41年指導

2006年07月11日
日本高野連と朝日新聞社が高校野球の発展に貢献した指導者を表彰する「育成功労賞」(「イヤー・オブ・ザ・コーチ」から名称変更)に、古川工や岩出山、古川商(現古川学園)で41年にわたって指導にあたった男沢紀夫さん(67)が選ばれた。
写真
男沢紀夫さん
男沢さんは61年に古川工に赴任すると同時に野球部で指導を始めた。岩出山で定年を迎えた後も、99年から02年まで古川商で監督を務めた。「野球は人格形成の一環」との信念で生徒と向き合ってきたという。
病気知らずの健康体を支えたのは「三度の飯より野球が好き」という情熱と、そして何よりも「日に日に上達する子どもたちの頑張り」だった。基本練習を重ねて守りを固めるのが「男沢野球」で、終電まで連日、「古川工高500本ノック」の音がグラウンドに響いた。
宮城大会ではベスト8が6回、うち3回はベスト4に進出。65年には宮城代表として東北大会にも進出した。
今でも時々、自宅を訪ねてくる教え子たちと酒を朝まで酌み交わす。向き合えば一人ひとりのプレーが目に浮かぶ。「監督と球児の、あの夏に戻れる。無形の財産です」
最近は、バラなど奥さんの家庭園芸を手伝うのが楽しみ。今年も宮城大会が11日に開幕する。「勝っても負けても、みんなで悔いなく抱き合えるような、3年間の総決算となるプレーを見せてほしい」と、球児たちに熱いメッセージを送る。 

*古高 昭和31年卒業 男沢紀夫先輩に関する記事




8月26日 1981年(昭56) 宇野勝ヘディング事件 星野仙一が怒ったもう一つの理由



【中日2-1巨人】西から次第に天気が崩れ出してきていたが、東京・後楽園球場の夜空は曇り。南風が緩やかに吹いていた。


そんな夜“事件”は起きた。巨人-中日19回戦7回裏二死一塁、ここまで中日・星野仙一投手の気迫とテクニックに翻弄され、わずか2安打無得点の巨人打線。80年8月4日、広島14回戦に6-2で快勝して以来続いている、チームの連続試合得点記録が159試合でストップしそうな気配だった。藤田元司監督はこの日無安打の1番・松本匡史左翼手に代えて、山本功児内野手をピンチヒッターに起用した。


山本の打球は力のない宇野勝遊撃手へのポップフライ「と思って、一塁側内野席から立ち上がり、帰ろうとした瞬間、とんでもない光景を見てしまったんです」とは、当日後楽園で観戦していた、巨人ファンの会社員男性(23)。


遊飛と誰もが思った打球を、なんと宇野が右側頭部付近に当てる“ヘディング”で、ボールは左翼方向に転々。大島康徳左翼手が慌てふためきながら追い、うずくまっている宇野を構っている暇のない正岡真二二塁手が急いで中継プレーの態勢に入った。


「一体、何が起こったんだ!」。星野は口を開けて三本間に立ったまま。中尾孝義捕手はダイヤモンドを駆け巡る、一塁走者・柳田俊郎外野手、山本の走りが気になって仕方ない。柳田が生還、山本も三塁を回った。大島から正岡へ、正岡から中尾へ返球された。


鈴木徹球審の「アウト!」コールに、星野は喜ぶどころか、グラブを思い切り叩きつけた。巨人の連続試合得点記録はオレが止める、という気概でマウンドに立っていた星野にとっては我慢ならない光景だった。


うーやんこと、宇野選手の“世紀の珍プレー”に「あれで同点になったら、ヘディングどころか自爆点だ。怒ったのは宇野に対してやない。完封がなくなったのが悔しかったんだ」と星野はオトナの対応をしたが、悔しがる理由がもう一つあった。


約1ヵ月後、ナゴヤ球場での中日-巨人22回戦で中日・小松辰夫投手が巨人を4安打完封、連続試合得点記録を174でストップさせた。「星野さんとどちらが先に巨人の記録をストップさせるかで、実は10万円のカケをしていたんです」。試合終了後、うれしそうに小松は答えた。


ヘディング事件の試合で、実は宇野が先制点となる右翼線二塁打を4回に巨人の先発・加藤初投手から放っていることは、ほとんど語られていない。この1点がなければ、試合は引き分けに終わっていたかも知れず、宇野は巨人、中日両ファンに大サービスした格好となった。


ちなみに対巨人通算35勝を挙げた星野のこれが敵地後楽園での最後の勝利だった。


*古高出身、大洋に進んだ鈴木徹先輩(故人)の記事です。






イヤー・オブ・ザ・コーチ 沼倉さん表彰

2005年07月05日
asahi.com
 日本高野連と朝日新聞社が高校野球の発展に貢献した指導者を表彰する今年度の「イヤー・オブ・ザ・コーチ」に、35年間、古川を率いた沼倉公さん(68)が選ばれた。6日の開会式で表彰される。


1963(昭和38)年、母校の古川に赴任した際、高校時代の恩師で当時の野球部長と校長室の前でたまたま鉢合わせに。「一緒に野球部を見ないか」。大学までプレーしており、二つ返事で引き受けた。それから35年。「こんなに長くやるなんてね」と笑う。
在任中、22年間は責任教師と監督を兼務した。休日返上の毎日がたたり、入院したこともある。「郡部の学校を甲子園に連れて行きたいという一心だった」と話す。
監督として、夏はベスト8以上が4回。71年には、当時の東北大会決勝で福島県の磐城に敗れ、甲子園出場まであと一歩まで迫った。
「グラウンドは人間形成の場」との思いで、個々の選手と向き合ってきた。
「続けてきて良かったな」。300人を超す歴代の部員名簿を見ながら、今は畑仕事で日に焼けた顔をほころばせた。


*私の高校時代の監督です。過労で入院したのは私たちの年度であり、かわりに昭和46年東北大会決勝まで進んだ当時のサードで、慶応義塾大学野球部に進み、早慶戦で代打本塁打を打ったり、法政江川卓から二塁打を打ったりと活躍された佐々木治樹先輩が臨時監督として招聘されました。




nikkansports.com

七十七銀行が優勝!連続全国/社会人野球



<都市対抗野球・2次予選東北大会:七十七銀行2-1JR東日本東北>◇6日目◇3日◇仙台市民球場◇決勝・第1代表決定戦
七十七銀行(仙台市)が2-1でJR東日本東北(仙台市)を下し、3年ぶり4度目の優勝と、2年連続5度目の本大会(8月29日開幕、東京ドーム)出場を決めた。1-1と同点の9回2死三塁、7番DH目黒達也内野手(24=東北福祉大)がグリップエンドに当てる内野安打を放ち決勝点。相沢滋投手(35=東北学院大)が11安打を浴びながら121球で完投、最優秀選手賞に輝いた。
奇跡の打撃が決勝点を生んだ。9回2死三塁、ファウルで粘った目黒が「内の厳しいところに来た」という10球目。止めたバットのグリップエンドに当たり、コロコロと三塁線に転がった。昨年W杯でエース格の活躍をした摂津正投手(26=秋田経法大付)から決勝打を放ち、塁上で両拳を突き上げた。「何とかしようと思っていた」。執念が、バットに乗り移った。
その魂を、最も持ち続けたのは14年目の相沢だ。11安打を浴びても、粘り強く投げ抜き1失点。「今年は苦しいスタートだった。勝てて良かった…」と涙を浮かべた。チームは小町啓志主将(29=東北福祉大)が右ふくらはぎを肉離れするなど、ケガ人が続出。大会前に門間勇介(28=法大)を内野手に復帰させるなど大幅なコンバートを行い臨んだ。バックに不安も、負けたら言い訳はできない。村瀬公三監督(41)は「今回は相沢中心のローテを組んだ。責任を感じていたと思う」と語った。
相沢は、失点するまでアンダーシャツを替えないという。「今日は1枚だけでした」。完投勝利とともに、吸い込まれた汗を洗い流すような激しい雨。手荒くも、心地良い雨だった。【清水智彦】

*古高出身 相沢滋投手の記事。相沢投手は古高時代仙台育英を破り、台湾遠征代表にも選ばれた投手。七十七銀行を都市対抗野球の常連に押し上げたエースとして長年活躍しました。