行くぞ甲子園


(Please wait for a while. It may take a few moments to show gallery on your device)

12 April 2026

万朶の花の彼方へー古高黎明期の人々 4  坪内鋭雄(其の2)


逍遥選集 第十二巻(春陽堂 昭和2年)より 坪内鋭雄

(古高黎明期の人々3より続く)

いつの時代でも変わらぬ。筆者にも痛いほど身に覚えのある「独り立ち」の現実問題が鋭雄にも迫った。

「差当りて心を苦しむる事は如何にして自活自営すべきやの問題なり、あはれ我が陋しとせる生計問題も亦遂に我が頭上に落ち来たりし也。」

その折り、友人の幽蘭子(ゆうらんし)が鋭雄を訪ねて来た。彼は

「君のやうに可惜英才を持ちながら徒手(ぶらぶら)遊んで居るのは惜しいもの、且つ男子既に苟くも二十六歳、立派に高等教育を卒りながら、何時までも親の脛を齧って居るが能でもなく、第一君が常に口にする独立独行主義と大に矛盾する、何とか工夫せなければなるまい」にはじまり、

「千里の馬たらんと思ふ学者は先づ自ら千里を走り廻れ、而して伯楽は初めて現れるだろう」などと大いに激励し、さらに、

「運動しないで何の職業が轉げて来るものか、其れには第一に機敏第二には剛情とが必要で、第三には誠実と言ひたいが当節は誠実などは有って良し無くて良し」と言いたい放題、

終いには「少し耳寄りの話があったらば、内密と裏へ廻って、時宜に依っては朋友の利益をも全く転じて自分の利益とする位に、寧ろ厚かましく運動せねばならぬ」と、鋭雄相手に大演説をぶった。

鋭雄は、

「平生のならば、余は忽ち憤然として、一議論してみたき言文あれど、今は我にも一部の弱点あれば覚えず心臆れて、傾聴しぬ。」と、黙して耳を傾けるばかりである。

ところが幽蘭子はその長談義のあとおもむろに、

時に今日一つ好い職業(くち)を聴き込んだが、君、若しや遣って見る心はないか、其れは東北の或中学の教師で、受持学科は地理、歴史、一週間凡そ十七八時間で俸給(さらりー)は四十圓出すといふこと、場所は少々辺鄙だが汽車の便もあり、殊に前にも言ふた通り現時(いまどき)は東奔西走しても中々好い仕事は少し、ーーー(中略)ーーー幸ひ其の中学の校長は僕の知て居る者で、目下校用で上京中だから、君に往く気があらば直ぐにも紹介しやう、意向は如何かね。」と、これまでの説教調から突然転調して、東北の辺鄙な中学の教師の職を推薦し始めたのである。

この辺鄙な中学とは、もちろん「宮城県第三中学校(古高)」のことである。

小説の出だしの、鋭雄のとどまらぬ空想のたくましさと、幽蘭子の説教じみた演説の畳み掛け、それに引き続く突然の第三中学への就職の斡旋、実に計算された作者のユーモアが感じられる。

「兎も角明朝まで待って確答しやうと、其の日幽蘭子を帰して後、つくづく思案するに、固より村学究たらんことは我が好むわざならず、されど他の職業の俗習紛々たるに比べては教育といふ事業の割合に清浄なること、詩人のする世間的職業としては興味多かるべきことを思ひ、又た我が現在の境遇をも思へば、幽蘭子の云ふ所我が意を得たる節々もあるやうに感ぜられ、終いには、恰も我が職業問題の為に二三日來ひそかに心を痛むる折から、偶然かかる相談受けしは、或は天我れに授くるに此の職業を以てせるにあらぬか、などいふ怪しき信仰さへ、我がたゆたへる判断力を多少幇助けて、竟に赴任を肯んずることに決心しつ。」

鋭雄は一晩考えた後、この就職斡旋を受ける決断をし、神田の旅館に其の校長に会いに行った。校長は大いに信用していると言ったのみで、赴任は九月初旬夏季休暇終わる頃とすぐ決定した。


「余は任地に着しぬ、直ちに車を駆りて県立第八中学校と太文字厳しき札を石柱に掲げたる門を入り、受付に名刺を通じて中田校長に面会を申入るるに、、、」

第三中学ではなく、第八中学に変えているが、この石門に見覚えのある諸氏も多かろうと思う。
県立古川中学校時代の校門(明治時代)

2013年の校門 (この太文字厳めしき表札を掲げる石柱は当時から現存している)


続いて、始業式と新任の教師の披露式が講堂で行われることになった。

「講堂は五六百人を容るるに足るべし、正面の天井に接して高き所には、奥深き棚をしつらえて、堅く鎖したる白木の扉には、目眩き真鍮のくぎ(一文字不明)をうち、外部には注連引きわたしたり、畏き御影を安置したてまつれること著く、余は此の神秘なる講堂の入口に立停まりて、先づ正面の方に向ひて敬礼し、、、」
after
明治時代の分校の講堂(古中古高百年史)

当時、鋭雄が初めて第三中学校を訪れ、講堂で挨拶した時の様子が目に浮かぶようである。

このストーリーに従えば、鋭雄の友人(幽蘭子)が第三中学の校長(当時は小林満三郎氏)と知り合いで、その伝手で鋭雄に紹介したことになる。鋭雄はこの小説の最期に、

(こは三十六年著者が古川の中学を辞して帰京せし当時、三島にありて起稿せしものにて、著者自身の教員生活の紀念とも見るべし)

と但し書きを付けており、その言及びこの時代に叔父の逍遥によって提唱せられ隆盛を誇っていた写実主義の影響、もとより第三中学の景観描写他が事実に基づいて忠実に描かれているふうに思えることより、私の考えとしては、この幽蘭子によってはじめて古川との関係が生じたというのは事実ではないかと推測する。つまり、まず鋭雄の赴任があり、その後に鋭雄を通じて逍遥と森慎一郎氏(初代分校主任、二代目が小林満三郎氏)が関係するに及んだのではないか。根拠は希薄で当てずっぽうの域を出ないのではあるが。。。

ちなみにこの教師の地方への赴任とそこで巻き起こるドタバタ劇という作品構成は、夏目漱石の「坊っちゃん」とよく似ているが、「坊っちゃん」は1906(明治39)年の発表、坪内鋭雄の古川版坊っちゃんとも言うべき「当世教師生活」はそれより早く、1903(明治36)年の創作である。

「当世教師生活」の草稿は、
其の1 處世談、2 新任式、3 懇親会 4 土曜会 5ストライキ 6 遠足 7 大瓦解 という構成であったが、今は最後の6と7は欠損していると鋭雄は末文に書いている。その故か、全体を通して、当時の第三中学の生徒の描写はほぼ皆無で、もっぱら古川の料亭、下宿における教師間での丁々発止(泥酔したうえでの)に終始している感はあるが、唯一、5 ストライキにおいて、当時の生徒の様子を垣間見ることができる。

それによれば、各務登九郎という英語教師の授業に、第三年級の生徒六十餘名が一同に無断欠席するストライキを起こした。その理由を首謀者に問うに、

「其の首謀者と目すべき者は同級の生徒の中にも平素学力優等なるもの二三名にして彼等が此の挙を企てたる理由は、第一各務の英語教授は其の発音説明いづれも不精確にして第二には其の採點法が不公平なる故なりとさすがに包み隠さず自白せりといふ、依って会議の上校則に照らして首謀者には二週間の停学その他の者は一週間の停学を命ずることに決定し、、」

・・・成績優秀者らが首謀者で、発音説明いずれも不精確が理由とは当時の古高生は勉学の志いまよりはるかに高かったようである。

(坪内鋭雄(其の3)へ続く。)
















0 Read More »

10 April 2026

万朶の花の彼方へー古高黎明期の人々 3  坪内鋭雄(其の1)

0



*(2より続く)

ここで前回重要なご指摘をいただいている点に注目する。

坪内逍遥が「中学修身訓」を書いて、文部省の通達で見直さなければならなくなり、森慎一郎先生がその任を果たしので「新訂中学修身訓」はお二人の連名になっています。二人はどうして知り合ったのでしょうね。」

坪内逍遥(1859-1935)

坪内逍遥(つぼうちしょうよう)といえば、日本文学の近代化に貢献した偉大な巨星で、小説家、評論家、教育者、劇作家、シェークスピア全集の翻訳家、など幅広い業績で知られる。特に、東京帝大時代の同期、高田早苗とともに、早稲田大学の前身の東京専門学校の講師、早稲田大学に名称変更してからの教授として同大学の発展に多大の貢献があり、現在早稲田大学の敷地内には、彼の銅像とともに、早稲田大学坪内博士記念演劇博物館があり、数々の遺品、コレクションも展示されている。女優の坪内ミキ子は孫に当たる。

その坪内逍遥と森慎一郎氏が共著で「新訂 中学修身訓」を出版したのが明治44年11月。坪内逍遥は、本名の「坪内雄蔵」名義で著している。巻頭の緒言によれば、第4,5巻を新たに森氏が執筆担当したとなっている。



新訂 中学修身訓 坪内逍遥 森慎一郎 共著


問題は、著名なる坪内逍遥と、森慎一郎氏がなぜ共同執筆するに至ったのかということだが、このことについて関連があると思われる興味深い記述が「古中古高百年史」にある。

坪内逍遥の甥で、若き新進の文学者として将来を嘱望されていた坪内鋭雄(としお)が、宮城県第三中学校として独立したばかりの現古川高校に新米教師として赴任したのである。坪内鋭雄氏は、東京専門学校(早稲田大学)の文学部を首席で卒業したばかりで、才能にも恵まれており、文学で身を立てる決心でいたが、どういう理由からか、東北の古川へ新任の教師として赴任することに至ったのである。

鋭雄氏が赴任したのは明治34年春、古高が宮城県第三中学として独立してすぐのことで、明治32年に古高を去っている森慎一郎氏とは入れ違いになったが、この甥の赴任が契機となって、逍遥博士が森氏と懇意になった可能性も大いにあるではないか。もちろん逆の場合もある。つまり、既知の森氏の紹介で、甥の鋭雄氏に古川での教師生活を勧めた可能性である。
古中古高百年史より


職員録 明治35年より 
宮城県第三中学校の嘱託教員として、坪内鋭雄の名が確認できる

果たして、新進気鋭の文学士である坪内逍遥の甥、坪内鋭雄が、東北宮城の辺鄙な田舎教師として赴任するに至った理由は何なのだろうか?

彼は「当世教師生活」という著書の中で、この決断に至ったと思われる心境の推移を事細かく記載している。これが創作上のフィクションかどうかはまず置いておいて、その部分を抜粋してみよう。
坪内鋭雄「当世教師生活」(宗教と文学(明治38年 文明堂刊) 収録

この小説の出だしでは、語り手(鋭雄)が「ナポレオンが何者ぞ、成吉思汗(チンギスハン)が何者ぞ、この小さな島国の宰相くらいは自分は難なく務めてみせる云々」と気焔を吐いているところから始まる。大学を首席で卒業することになった主人公は自信と希望に溢れ、大いなる立身出世を夢みて矢継ぎ早にその将来像を論じている。その夢の最たるものは日本の大詩人になることである。ただ、気焔を吐くだけで実際の職はまだ無く、卒業後早くも二か月が経とうとしていた。そんな折、実父より手紙が届く。

かくする程に身に降りかかった一大事出来しぬ、それは國許の父より手紙到来して其許にも既に学校を卒業して天晴一人立ちの紳士として社会の為に御働なされ候はんこと蔭ながら欣賀に耐えず、就いては従来送付いたし居りし学資は、他にも少々都合あれば、本月限にて暫く相止むるにより成るべく御勘考の上奮励一番、自活自営の途を講じ他日錦を飾って帰省せらるるの日を只管相待つ次第、尤も不時に差し迫りたる金子の必要あらば、特にご申越されたく其の節は何とか工夫致すべしとの主旨なり、

つまりこれまで鋭雄に送付していた仕送りを卒業を機に停止するという通知だった。

(坪内鋭雄(其の2)に続く)





Read More »

06 April 2026

万朶の花の彼方へー古高黎明期の人々 2  分校主任 森慎一郎 氏

0

*(1より続く)この問い合わせを受けて、私は古中古高百年史を持っている人を探そうと思い、田村氏に試しにどのようにかして入手できないか聞いてみたが、5分と経たないうちに、すぐに実物のコピーが送られてきたので大変驚いた。それらを調べた上でその問い合わせへの返答を書いた。

つい今しがた、早くも冊子を持っている方と連絡を取ることができ、森慎一郎先生の記述箇所を見つけました。添付します。この古中古高百年史によりますと、肩書は「分校主任となっておりまして、「初代校長」は当時一中(現仙台一高)の下條校長が兼任するかたちになっていたのではないかと思います。また、歴代校長が列挙されているページは無かったそうです。
Read More »

02 April 2026

万朶の花の彼方へー古高黎明期の人々 1 ある投稿より

0

 

*このブログに以下のような投稿があった。

前略 突然、メールしてすみません。「宮城県古川高校野球部を甲子園へ」のブログを拝見しました。私は、都立立川高校(東京府立第二中学校)を卒業したのですが、今、校歌の作詞者と関連して、初代の校長「森慎一郎先生」のことを調べています。

森先生は、明治24年~明治31年 宮城県尋常中学校で教え、明治31年~明治326月 宮城県尋常中学校志田郡立分校の主任あるいは校長として教えていたと思われます。

 




これには、森先生が、最初の校長で3年、勤務したとあります。

「全国学校沿革史」には、明治31年8月校舎が完成し、その時は、校長は、仙台の尋常中学校の校長、下條幸次郎が兼務。分校主任が森慎一郎となっています。

 

おそらく、「古中・古高百年史」の記録が、一番正しいと思われますが、森先生が古川中学におられた年数は、どのように書かれているか、教えてもらえないでしょうか。また、先生に関する記事、写真等がありましたら、教えてください。

よろしくお願いします。

 

森先生は、おそらく先生のペスタロッチなどの教育論が当時の教育勅語の教育と合わなかったのでしょか、東京府立第二中学校の校長職を75カ月でとばされ、赴任先の富山中学校長を一年半でやめ、以後公職から一切手を引いています。その後、「言海」の大槻文彦先生の序による「新撰漢文典」という漢文の文法を教える本を書かれています。


森慎一郎先生の六男、蘊(おさむ)さんは、朝日新聞の連載「父ありき」で、「剛直で潔癖、当時の東京府知事の息子を二度落第させたのち退学処分にした。そのためか、富山県の中学へ転任させられた。」(当時の府知事は、千家尊福:せんげ たかとみ 年のはじめのためしとて…♪ の作詞者:出雲大社宮司:後の司法大臣)

「世事にはうとく、コツコツ勉強を続ける学者だった。・・・教育学研究では、ペスタロッチを原書で読んでいたと書かれています。。

蘊(おさむ)さんは、東京府立第二中学校の敷地にあった校長先生の家で生まれ、幼児期を過ごしたと思われます。東京大学を出られて、桂離宮や修学院離宮の庭園を昔の姿に復元する仕事をした人です。」





ーーーふむふむ。これはずいぶんと難しい質問を「宮城県古川高校野球部を甲子園へ」ブログに寄せられたものである。恥ずかしながら、古高開校当初の経緯や人物に関しては、私は何の知識も無い。かろうじて校歌の作詞者である星合愛人先生について調べた過去があるだけだ。


東京都内での旧学制の中等教育学校は、


東京府第一中学(1878年⇒ 東京都立日比谷高等学校(1950年)

東京府第二中学校(1901年⇒ 東京都立立川高等学校(1950年)

東京府第三中学校(1901年⇒ 東京都立両国高等学校・附属中学校(2006年)

東京府立第四中学校(1901年⇒ 東京都立戸山高等学校(1950年)

東京府立第五中学校(1918年⇒ 東京都立小石川中等教育学校(2006年)

東京府立第六中学校(1921年⇒ 東京都立新宿高等学校(1950年)

東京府立第七中学校(1922年⇒ 東京都立墨田川高等学校(1950年)

東京府立第八中学校(1922年⇒ 東京都立小山台高等学校(1950年)


他にもあるが、いわゆる旧制府立ナンバースクールはご覧のように名だたる名門校揃いで、その第二中が前身である立川高校、1901年開校、その初代校長が、古高の前身の志田郡立分校主任の森慎一郎氏であるという話で、不勉強の私はもちろん初めて知ったが、興味深くもあり、誇らかな話である。


ぜんたいに、歴史とともに田舎に埋没しつつあるような古川高校ではあるが、その開校当初の黎明期を支えた人物を調べると、実に全国に誇れるような人材がいたことに驚かされる。東北の辺鄙な田舎に、優秀な教員が集い、地元の血気あふれる若者のために中学校開校に尽力し、そこで育った若者は、いまに歌い継がれる校歌を高らかに歌い、万朶の花雲の向こう側に大いなる大志を持って巣立っていった。そんな誉高い歴史が我が古川高校にあることを伝えていくために、これから数回にわたって、「万朶の花の彼方へー古高黎明期の人々」と題して、その人物像と歴史を書いてみたいと思う。









Read More »

10 March 2026

東日本大震災15年 MBSラジオ~遺族が取り組む『企業防災』」/野球部OB鹿野氏 大崎市長選に出馬

0

 03月08日(日




*早いもので東日本大震災から15年か。。。息子の健太選手を失った田村さんが、MBSラジオに出演しています。その時の放送内容は以下のリンクから聴くことができます。
https://open.spotify.com/episode/38oONWzXaFNyidknbamyo9



第1536回「東日本大震災15年【3】~遺族が取り組む『企業防災』」
ゲスト:一般社団法人「健太いのちの教室」田村孝行さん

田村孝行さん(65歳)は、東日本大震災で長男の健太さん(当時25歳)を亡くしました。健太さんは宮城県女川町の七十七銀行女川支店に勤務していました。地震発生直後、大津波警報が発表され、町の防災無線でも「高台への避難」が繰り返し呼びかけられていましたが、銀行の支店長は、走って1分のところにある高台ではなく、銀行の屋上への避難を指示。行員たちは津波に襲われ、健太さんを含む12人が犠牲になりました。
銀行側は、「宮城県が想定していた津波の高さは最大5.9mであり、高さ10mの屋上でも大丈夫と判断した」と説明。銀行の防災計画には、屋上に避難するプランもあったと言います。しかし、女川町を襲った津波は高さ20mにもなりました。高台に避難した住民600人は無事でしたが、屋上にいた健太さんらは津波に飲まれてしまったのです。
なぜ高台に避難しなかったのか、納得のいかない父・孝行さんは、息子の命を無駄にしたくないと、「健太いのちの教室」という団体を立ち上げました。人命を第一に考え、従業員の声をきちんと受け止める「企業防災」の重要性を訴え続ける田村孝行さんに話を聞きます。
 
健太いのちの教室
https://kenta-inochiclass.com/

(番組内容は予告なく変更する場合があります)



*動画はTBC東北放送公式Youtubeチャンネルより






産経新聞より

田村さんがラジオで言及している静岡銀行の改革を報じる産経新聞 3月15日




*また、平成8年卒 4番ファースト鹿野良太選手(元大崎市議、OB会副会長)が、大崎市長選に立候補したとのこと。ぜひ田村さんの訴えを具現化するような、防災、災害対策を強力に推進する市政を目指してくださいませ。詳細は以下より。





Read More »

18 December 2025

岡崎郁「アスリートアカデミア」、佐藤洋氏登場

0

 


*先日亡くなられた前東北高校監督の佐藤洋氏が、元巨人の岡崎郁氏のyoutubeチャンネル「アスリートアカデミア」に出演している。佐藤氏が亡くなったのが11月27日、この番組の撮影が行われたのが11月1日とのこと。映像からは高校野球に対する彼の深い知見と、生徒目線の思いやりのある指導方針が感じられ、改めて宮城県の高校野球は惜しい人材を失ったと思う。












Read More »

28 November 2025

東北高校前監督佐藤洋氏死去 11/28/2025

0

 


*東北高校前監督の佐藤洋氏が急性大動脈解離で急逝したとのこと。監督を退任したばかりで突然の訃報に驚いている。佐藤氏は、坊主制度を廃止したり、自分をひろしさんと呼ばせ、選手と対等の目線で名門東北高校の復活に取り組み、久しぶりの甲子園出場も果たした。常に仙台育英と好試合を展開、宮城の高校野球ファンを魅了していた。筆者が思い出すのは、甲子園の塁上で選手が「ペッパーミル」の動きを見せた時に、審判が意味不明に注意、試合後「子供が楽しんでいるのになぜ大人がとめるのか?」と敢然と疑義を呈したことである。これは普通に考えればまったくの正論であり、戦前から続く旧態依然とした日本の高校野球の権威主義的な文化に追従するのではなく、反旗を翻す稀有な素晴らしい指導者とみなしていただけに、誠に残念でならない。心より御冥福をお祈り申し上げます。


【巨人】OBで前東北高監督の佐藤洋さんが急逝 同期入団の宮本和知さんが絶句「つらいですね」(スポーツ報知)


 巨人は28日、球団OBの佐藤洋(さとう・ひろし)さんが27日2時26分に、さいたま市内の病院で急性大動脈解離のため死去したと発表した。63歳だった。  佐藤さんは東北高、電電東北を経て84年ドラフト4位で巨人入団。入団後に捕手から内野手に転向し、通算97試合に出場して打率2割5分4厘、1本塁打。巨人で94年までプレーした。  22年からは母校の東北高野球部監督に就任し、23年のセンバツに出場して春の甲子園で指揮をとった。今年8月に退任したことが発表されていた。  元投手で巨人女子チームの宮本和知監督は川崎製鉄水島から84年ドラフト3位で巨人に指名され、佐藤さんとは同期入団。年齢は佐藤さんが1学年先輩だった。  急な訃報(ふほう)を受け、宮本さんは絶句。「東北高校で、監督をされていて。私も監督をやっていますから、今度指導者のことをいろいろと教わろうと思っていたので。ビックリしています。同期入団で佐藤さんはキャッチャーだったので、よく受けてもらいました。1球1球アドバイスしてくれて。ドラフト同期で一番、年齢が上だったので。兄貴的な存在でした。我々の年代の方がこうやって亡くなるのはつらいですね」と言葉を詰まらせた。

元巨人の佐藤洋氏が急死、63歳 今年7月まで母校の宮城・東北高の監督務める(日刊スポーツ)


 元巨人で、今年7月まで母校である宮城・東北高の監督を務めた佐藤洋氏が急死していたことが28日、わかった。63歳だった。  佐藤氏は東北で春夏通算4度、甲子園に出場。卒業後は電電東北(現東北マークス)でプレーし、84年ドラフト4位で巨人に入団した。内外野をこなすユーティリティーとして97試合に出場し、通算2割5分4厘。94年を最後に引退後は、アマ野球の指導などを行ってきた。22年8月1日付で東北の監督に就任。翌年には12年ぶりとなるセンバツ出場を果たした。丸刈りを廃止し、真夏の練習ではTシャツ、短パンを認めるなど、高校野球界に新たな風を吹き込んだ。
Read More »

17 October 2025

花巻東が優勝。第78回秋季東北地区高校野球大会

0

 


第78回秋季東北大会は花巻東が優勝。準優勝は八戸学院光星。この2校は、選抜出場が濃厚だろう。今年もう一枠ある3番手はどこになるのか?ベスト4に残った東北は花巻東に3安打完封負け。聖光学院は光星に大差で負け。だが、聖光学院は仙台育英を破っている。また、八戸工大一高は優勝した花巻東にタイブレークの末での敗戦だった。こう考えると、東北は選ばれるかどうかまだ不確定と言える。

Read More »

23 September 2025

優勝は仙台育英 第78回秋季東北地区高等学校野球宮城県大会

0

 


*宮城ではお決まりの仙台育英が優勝、東北が準優勝。3位が名取北、部員10人の気仙沼は今大会大健闘したが、惜しくも4位になり東北大会出場を逃した。名取北は初の東北大会。応援してるぞ。

中学時代の優秀な選手が集結しているという仙台育英、羨ましい限りだが、読者はU18の世界大会決勝の日本ーアメリカ戦を観ただろうか?

Read More »

27 August 2025

第78回秋季宮城県大会 二次予選 対加美農高校 8/27/25

0

 

(写真提供 古高OB様)



開始:08:24 終了:11:03

123456789R
加美農業0110300207
古川2000000002
加美農業高校の勝利

*古高、加美農に敗けて県大会出場ならず。
観戦していた方の話だと、ボロボロであるとのことだが、きちんとチームとして練習が出来ているのであろうか? 部員10人とのことで、これは致し方ないのかもしれぬ。過度に期待している訳では無いが、いずれにしても部存続の危機的状況には変わりはない。
Read More »

23 August 2025

第78回秋季宮城県大会 一次予選 対利府高校 8/23/25

0

 

(写真提供 古高OB様)

開始:11:31 

123456789R
利府1634014
古川020103
5回コールド 利府高校の勝利 県大会出場

*古高、利府にコールド負け(5回)。まあ、新チーム初戦で、部員不足の問題もあるし、コールド負けはそれほど悲嘆する必要はない。
Read More »

沖縄尚学が夏初優勝 第107回全国高等学校野球選手権大会 8/22/25

0

 

琉球新報 号外

*沖縄尚学が夏初優勝。今日も背番号10の新垣投手が好投で、これで来年左右の全国トップレベルのWエースがいることになる沖縄尚学、さらに注目されそうである。
こうしてみると、仙台育英の吉川投手は、味方のエラーさえなければ沖縄尚学に3−1くらいで勝っていたのではないか?と思えてならない。
Read More »

20 August 2025

古高激闘の記録(24) 古川 対 柴田 (2015 選手権宮城大会)  8/20/25

0

 


*前回登場いただいた日野選手の協力の下に、2015年第2シード柴田高校との激闘を振り返る。

柴田高校は、1986年(昭和61年)宮城県柴田郡柴田町開校の県立校で、県内で初の体育科を設置した学校である。硬式野球にも力を入れており、元ロッテ・巨人・楽天で名ショートとして名を馳せた小坂誠選手の母校。2013年選手権宮城大会では初の決勝に進出、優勝した仙台育英に惜しくも1点差(5−6)で敗れたが以後も確実に実力をつけ、この2015年の春季県大会でも準優勝。第2シードとして夏の初戦、古川高校戦を迎えた。
Read More »

横浜敗れる 準々決勝 県立岐阜商業との名試合 8/19/25

0

*春の王者横浜が遂に負けた。サヨナラ負けの直後、ほとんどの選手がグラウンドに倒れ込んだ。春夏連覇に賭けた横浜高校の言葉にならない無念さを、痛切に見せつけられた。
Read More »

19 August 2025

第78回 秋季宮城県大会 1次予選組み合わせ 8/19/25

2

 


*今年から変更なのか定かではないが、この秋の県大会出場をかけた予選はやや違った形式で行われるようである。枠1−5を北部地区の高校が占めているが、古川学園は枠26だし、県全体で調整しているということなのであろうか?
Read More »

07 August 2025

古高激闘の記録 (23) 古川対塩釜 (2014春季県大会) および 投稿「OBの声」4 日野悠人さん(2016卒) 8/7/25

0

 

古高時代の日野選手(写真 本人提供)

*今回は、2016年卒業の日野悠人さんにいただいた資料を元に、「2014年春季県大会 古川ー塩釜の2試合にわたる延長の大熱戦」を振り返るとともに、日野さんに当時の状況、OBから見た声をいろいろ聞いていきたいと思います。

Read More »

28 July 2025

仙台育英が甲子園へ 第107回全国高校野球選手権宮城大会 7/28/25

0

 


*今年の宮城大会は仙台育英が2年ぶりに優勝し甲子園出場を決めた。柴田、東北には苦戦したが、尻上がりに調子をあげ、決勝は10−0で学院榴ヶ岡を破っての優勝。対東北戦は、両者互角の戦いで、東北も全国レベルの試合をしていた印象がある。なんでも、仙台育英エースの吉川投手は、父親が元バレー全日本監督で、母が全日本のリベロを務めていたバレー一家出身とのこと。右打者の内側に食い込むようなスライダーは威力があり、あれを見極めるのはなかなか難しいだろう。
Read More »