*私はかつて、古川高校校歌の作詞者である星合愛人教諭について個人的に調べていた。過去の投稿を参照していただきたい。
https://furuko-baseball.blogspot.com/search/label/%E6%98%9F%E5%90%88%E6%84%9B%E4%BA%BA
Furukawa high school baseball club 母校の甲子園初出場を夢見るOBによる "超個人的な"Blog (Since 2010.6)





2018 秋季東北大会



















私の甲子園について 鈴木進 (古中古高百年史)

23年前の東陵初優勝
野球部神宮大会出場の回想 監督 高橋 養/ 昭和38年卒 野球部 宮本文寿
カラーで蘇る古高写真(古中古高百年史より抜粋)














*この写真は、1894(明治29)年10月に、京都の島津製作所で撮られた日本で初めてのレントゲン写真である。そしてこの手は、当時旧制三高(京都大学)の助手をしていた糟谷宗資氏の左手である。糟谷氏は、のちの古川中学の校長、同校の初代同窓会会長である。
*私はかつて、古川高校校歌の作詞者である星合愛人教諭について個人的に調べていた。過去の投稿を参照していただきたい。
https://furuko-baseball.blogspot.com/search/label/%E6%98%9F%E5%90%88%E6%84%9B%E4%BA%BA
*春季北部地区予選の組み合わせが発表された。古高は、4/25 古川工業と、4/29に小牛田農林と対戦する。連勝なら県大会出場、連敗なら敗退、1勝1敗ならば決定戦に回る。古高にはぜひ頑張っていただきたい。今年はバーチャル高校野球が速報をやるようなので、試合経過についてはそちらを参照されたい。
(古高黎明期の人々4より続く)
*坪内鋭雄氏は、第三中学の教職を辞したあと、日露戦争に従軍、大石橋の戦い(Battle of Tashihchiao)で戦死している。わずか二十七年の命だった。

*(2より続く)
ここで前回重要なご指摘をいただいている点に注目する。
「坪内逍遥が「中学修身訓」
坪内逍遥(つぼうちしょうよう)といえば、日本文学の近代化に貢献した偉大な巨星で、小説家、評論家、教育者、劇作家、シェークスピア全集の翻訳家、など幅広い業績で知られる。特に、東京帝大時代の同期、高田早苗とともに、早稲田大学の前身の東京専門学校の講師、早稲田大学に名称変更してからの教授として同大学の発展に多大の貢献があり、現在早稲田大学の敷地内には、彼の銅像とともに、早稲田大学坪内博士記念演劇博物館があり、数々の遺品、コレクションも展示されている。女優の坪内ミキ子は孫に当たる。
その坪内逍遥と森慎一郎氏が共著で「新訂 中学修身訓」を出版したのが明治44年11月。坪内逍遥は、本名の「坪内雄蔵」名義で著している。巻頭の緒言によれば、第4,5巻を新たに森氏が執筆担当したとなっている。
*このブログに以下のような投稿があった。
「前略 突然、メールしてすみません。「宮城県古川高校野球部を甲子園へ」のブログを拝見しました。私は、都立立川高校(東京府立第二中学校)を卒業したのですが、
森先生は、明治24年~明治31年 宮城県尋常中学校で教え、明治31年~明治32年6月 宮城県尋常中学校志田郡立分校の主任あるいは校長として教えてい
これには、森先生が、最初の校長で3年、勤務したとあります。
「全国学校沿革史」には、明治31年8月校舎が完成し、
おそらく、「古中・古高百年史」の記録が、
よろしくお願いします。
森先生は、
蘊(おさむ)さんは、
ーーーふむふむ。これはずいぶんと難しい質問を「宮城県古川高校野球部を甲子園へ」ブログに寄せられたものである。恥ずかしながら、古高開校当初の経緯や人物に関しては、私は何の知識も無い。かろうじて校歌の作詞者である星合愛人先生について調べた過去があるだけだ。
東京都内での旧学制の中等教育学校は、
東京府第一中学(1878年⇒ 東京都立日比谷高等学校(1950年)
東京府第二中学校(1901年⇒ 東京都立立川高等学校(1950年)
東京府第三中学校(1901年⇒ 東京都立両国高等学校・附属中学校(2006年)
東京府立第四中学校(1901年⇒ 東京都立戸山高等学校(1950年)
東京府立第五中学校(1918年⇒ 東京都立小石川中等教育学校(2006年)
東京府立第六中学校(1921年⇒ 東京都立新宿高等学校(1950年)
東京府立第七中学校(1922年⇒ 東京都立墨田川高等学校(1950年)
東京府立第八中学校(1922年⇒ 東京都立小山台高等学校(1950年)
他にもあるが、いわゆる旧制府立ナンバースクールはご覧のように名だたる名門校揃いで、その第二中が前身である立川高校、1901年開校、その初代校長が、古高の前身の志田郡立分校主任の森慎一郎氏であるという話で、不勉強の私はもちろん初めて知ったが、興味深くもあり、誇らかな話である。
ぜんたいに、歴史とともに田舎に埋没しつつあるような古川高校ではあるが、その開校当初の黎明期を支えた人物を調べると、実に全国に誇れるような人材がいたことに驚かされる。東北の辺鄙な田舎に、優秀な教員が集い、地元の血気あふれる若者のために中学校開校に尽力し、そこで育った若者は、いまに歌い継がれる校歌を高らかに歌い、万朶の花雲の向こう側に大いなる大志を持って巣立っていった。そんな誉高い歴史が我が古川高校にあることを伝えていくために、これから数回にわたって、「万朶の花の彼方へー古高黎明期の人々」と題して、その人物像と歴史を書いてみたいと思う。
03月08日(日
田村孝行さん(65歳)は、東日本大震災で長男の健太さん(当時25歳)を亡くしました。健太さんは宮城県女川町の七十七銀行女川支店に勤務していました。地震発生直後、大津波警報が発表され、町の防災無線でも「高台への避難」が繰り返し呼びかけられていましたが、銀行の支店長は、走って1分のところにある高台ではなく、銀行の屋上への避難を指示。行員たちは津波に襲われ、健太さんを含む12人が犠牲になりました。
銀行側は、「宮城県が想定していた津波の高さは最大5.9mであり、高さ10mの屋上でも大丈夫と判断した」と説明。銀行の防災計画には、屋上に避難するプランもあったと言います。しかし、女川町を襲った津波は高さ20mにもなりました。高台に避難した住民600人は無事でしたが、屋上にいた健太さんらは津波に飲まれてしまったのです。
なぜ高台に避難しなかったのか、納得のいかない父・孝行さんは、息子の命を無駄にしたくないと、「健太いのちの教室」という団体を立ち上げました。人命を第一に考え、従業員の声をきちんと受け止める「企業防災」の重要性を訴え続ける田村孝行さんに話を聞きます。
健太いのちの教室
https://kenta-inochiclass.com/
(番組内容は予告なく変更する場合があります)
*東北高校前監督の佐藤洋氏が急性大動脈解離で急逝したとのこと。監督を退任したばかりで突然の訃報に驚いている。佐藤氏は、坊主制度を廃止したり、自分をひろしさんと呼ばせ、選手と対等の目線で名門東北高校の復活に取り組み、久しぶりの甲子園出場も果たした。常に仙台育英と好試合を展開、宮城の高校野球ファンを魅了していた。筆者が思い出すのは、甲子園の塁上で選手が「ペッパーミル」の動きを見せた時に、審判が意味不明に注意、試合後「子供が楽しんでいるのになぜ大人がとめるのか?」と敢然と疑義を呈したことである。
(写真提供 古高OB様)
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