*この写真は、1894(明治29)年10月に、京都の島津製作所で撮られた日本で初めてのレントゲン写真である。そしてこの手は、当時旧制三高(京都大学)の助手をしていた糟谷宗資氏の左手である。糟谷氏は、のちの古川中学の校長、同校の初代同窓会会長である。
ドイツのヴュルツブルク大学のヴィルヘルム・コンラート・レントゲンが、世界で初めてX線の存在に気づいたのが明治28年(1895)。すぐさまその情報は世界中にわたり、多くの研究者が追試を試みていた。日本でも、山川健次郎博士(元会津若松白虎隊隊員、のちの東京帝大総長)を初めとする東京大学物理学教室のチームと、京都大学の村岡範爲馳(はんいち)教授を中心としたチームがしのぎを削った競争をしていた。村岡教授のチームは、村岡博士、助手の糟谷氏、島津製作所二代目の島津源蔵、源吉の兄弟の4人。村岡博士はかつて留学先のストラスブルグ大学のクント教授のもとで博士号を取得したが、同研究室の助教授がこのレントゲン博士であった。
糟谷氏は、代々福井県小浜で代官をつとめていた士族の出で、小濱中学を出た後、旧制第三高校(京都大学)に入学、村岡教授のもとで助手として物理学の研究に従事していた。その後明治36年県立富山中學の教諭となり、明治42年から、宮城県立古川中学の校長となった。同じ時代に、前回の投稿の鈴木譲三郎、星合愛人両教諭の名前が確認される。古川中学では同窓会の設立を主導した。大正4年には、築館中學の校長に就任、大正8年より母校福井県立小濱中学(現福井県立若狭高校)の校長に就任した。
(古中古高百年史より)
”同窓会の発足 同窓会の記録によれば◯九(明治四十二)年四月赴任した糟谷校長は学校創立以来、十数年未だ同窓卒業生が友情を温め、相互の連絡を保つ機関の存在しない欠陥を指摘し、その対策を検討のうえ一◯年三月第九回の卒業生が巣立つのを機に同窓会の創立を計画した。二五名の卒業生による発起人会において準備が進められ、同年七月二十四日、発会式が行われた。会則は現今のものと大差はないが、会長は母校の校長があたることになっている。この年仙台と東京では支部の発会式がおこなわれ、以後、年に二、三回の例会が開かれたようである。”




















































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