*須江監督は何かと驚きを与えてくれる監督だ。全国制覇を成し遂げる程の名将であるのみならず、ある目的を持って環境(高校野球界)に「変化を促す」行動を率先して起こしている。高校球児にとって、「甲子園」が目的のほぼ全てになってしまっていることを、本人も痛切に知っているからこそ、このような思いやりの気持ちが生まれるのだろう。根底にあるのは、甲子園に恋い焦がれる選手を思いやる「心くばり」なのではないかと思う。
どんな弱いチームであっても、必ず一人や二人は本気で甲子園を目指している。
それほどまでに「甲子園」という言葉は、日本において特別な響きを持つ。
戦前から多くの観衆を引きつけ続け、戦後は復興期の娯楽として人々を支えた歴史を持つ甲子園は、単なる球場名を超え、日本人の生活に深く根付いた象徴となっている。
今や「甲子園」と言えば、それだけで高校野球を意味する存在である。
「高校野球は高校生のためにある」という前提に立脚するならば、指導者の義務は、その子どもたちの憧れの甲子園へ向けての努力をサポートすることであるし、健全で安全な日々の練習環境を整えて監視することであるはずだ。「甲子園はお前らには無理だ、身の丈に合わせろ」などという指導者は論外、「甲子園目指して最後の最後まで頑張ってみろ。俺がサポートする。お前らならやれる」と時にはハッタリでも良いから、選手をその気にさせて鼓舞してやるべきで、その点においても子どもたちを思いやる「心くばり」が求められるはずである。野球は子どものためにあるということは、つまりはそういうことではないだろうか。
7回制について私の意見を言っておきたい。あくまで個人的な意見なので誤解のないように。アメリカも高校生は7回制である。ただ、アメリカの高校は、全米大会もない、春のシーズンスポーツに過ぎず、ごくごく近隣の高校とリーグ戦を行なって、勝者がネクストステージに進む仕組みであるが、その最終ステージは州の大会である。日本にたとえるならば、県大会くらいで終わりという感じではないだろうか。アメリカ人の一貫した考えは、スポーツのメインは大学生以降で、「高校生はまだからだの発達途上であるので、決して無理をさせてはならない」というものである。全国大会は上記の理由により、開催の議論さえ起きない。ただし、野球のシーズンが終われば次はフットボール、バスケ、ホッケーなど数種の部活を掛け持ちしているのが普通で、その点で野球のみに全身全霊をかけている日本の高校球児とは根本的に異なる。
だからと言って、日本が何から何までアメリカの意見に追従するべきと言っているのではない。考えてみると、現行で推進されている高野連の改革はほとんど、歴史とともに確立されて来たスタイルを「ネガティブに変更しようとする」ものばかりではなかろうか?球数を制限する、延長はタイブレーク方式とする、なぜ、「野球は人気があるのに、一試合9回では短いから、15回制にしよう」とか、あるいは「一県一校の代表だけではあまりに狭き門なので、今後一県2校(予選の優勝、準優勝校)が甲子園へ出場できるようにしよう」、などという逆のポジティブな改革案が出てこないのだろう?
これだけ人気の高校スポーツは世界を見渡しても存在しない。考えてみれば不思議な話である。何か高校生の健康を慮って短縮、縮小傾向の改革ばかりであるが、旧来のスタイルで目に余る弊害が全国的に多発したのならばまだしも、そのような弊害は私の時代であってもあまり耳にしていないような気がする。
元来野球は、投手を除けばサッカーなどと比べても運動量の少い競技であり、現行の炎天下での試合を避ける、給水タイムを設ける、などの改革は、それが無い時代を過ごしてきた者にとっては、何か過保護的な、生ぬるい印象を残している感がある。バッティンググローブも、守備用手袋も、サングラスも、自打球用のプロテクターも、もっと言えば過度にテーピングするのさえ、昔はみんなNGだった。それらは悪い改革だと言っているのではない。それらは良い。自分らもゆるされるならば使いたかった。言いたいのは、今はそれらが全部許されている上に、9回を7回制にしようとする議論が起きているのは何故なのか?ということである。ここをきっちりクリアにしておかないと、単に大人の都合で試合時間を短縮したいだけなのではないのかとあらぬ疑義が生じるだろう。
日本とアメリカの高校野球の違いは何か?ズバリ「甲子園の文化の有る、無し」だろう。高校生の「その後の成長」を考慮するのも分かるが、甲子園以後の「その後」を目指している球児は正直どのくらいいるだろうか?ほとんどの高校球児が必死で求めているもの、それは「最後の夏に憧れの甲子園球場に立つ」ことだ。そのために3年間血の滲むような努力にも耐えられるのである。
日本の高校野球がこれだけ人気競技になった理由は、どう考えても「甲子園」の存在である。一度しか無い青春時代に、その大きな夢、聖地である「甲子園」がある。私立だろうが公立だろうが向かう方向は皆同じ、どこの高校球児でもその共通の夢の舞台を求めてすべてをかけて最後の決戦に挑む。不運にも負ければ、勝者に「絶対甲子園行けよ」とその夢を託す。これはむしろ素晴らしいことであるはずだ。
この「甲子園」がある日本で、わざわざ中学野球みたいに「7回制」にする理由は何もないのではないかと言うのが筆者の結論だ。少年野球は5回、中学野球は7回、高校野球から9回、きちんと子どもの成長を考えてこれまで日本はやってきたではないか。
ちなみに私はコールド制度も反対の立場だ。まして、7点差でコールドというのは、いくらなんでも早すぎる、7点差をひっくり返した試合はいくらでもあるではないか。7回制だと、3回コールドなどが設定されるのだろうか?
弱いチームでも野球をやりたいと頑張ってきた選手、連合チームしか組めずそれでも腐らずに練習してきた選手に、せめて最後の試合くらい野球の大前提のルールである「9イニング」を悔いがないようにやらせてあげたい、多くの打席を与えたいと考える方が、過度に選手の健康を心配したり、ある特定の才能を持った選手の「その後」を考慮して、一括りに試合を短くしてしまおうという短絡的な発想よりも、子供を思う本当の意味での温情を感じる。負ければ引退、その瀬戸際で子供らは戦っているのだ。7回にしようという意見がどこから出るのか不思議である。そこに本当の意味での心配りがあるのだろうか?
「その後」がある特別の選手の扱いは、そのチームごとに決めれば良い。本来球数制限もそうあるべきだ。その為に子供を管理する側の教育、監督、指導者の教育こそ高野連はもっと真剣に力を入れるべきではないだろうか。旧態依然の閉鎖的な空間ではなくて、ここに外部からの識者を積極的に呼んで子供の成長を含めた開かれた議論を活発に行い、安全対策を万全にする。
まず持って第一義に考えるのは、「甲子園」に全てをかけた過去がある野球人の意見だろう。甲子園が「ただの球場名」ぐらいに思っている外部識者の専門的な意見は、いくら説得力があるように見えても、この際二の次とすべきであると考える。
なんとなく、それが正しいような気がするのだが。















































No comments:
Post a Comment