22 January 2019

私の甲子園について 鈴木進 (古中古高百年史)

昭和26年、選手権宮城大会初制覇の古川高校野球部



*21世紀枠の発表は今週に迫り、皆一様に気が気でないのを隠している感じが伝わってくる。まるで、ノーヒットノーランを達成しようとしている投手の気持ちを慮って、そのことを口に出さない、そんな感じだ。そりゃそうだ、何せ我が古高にとっては、開校以来の悲願なのだから。ここは、どうしても選んでもらいたいというのが正直な気持ちだ。

しかし今年はご存知の通り21世紀枠は大激戦である。どこが選ばれてもおかしくない。横一線という感じだ。確率は、3/9=である。現実に6校は夢の舞台に進めないことになる。

万が一3校に選ばれなかったら…”4校目”として特別に選んでほしい。そのくらいに思っている。そんな古高OB/OGが大半だろう。



甲子園。


今週は、皆同じだろうが仕事にならない。私に至っては寝ることも儘ならぬ。よって、 ちょうどいいので甲子園への人一倍の思いを、発表まで綴って行こう。こうなったらもう思い入れ、熱情の問題である。”思う念力岩をも通す”と云うではないか。夢に散った多くの先輩も今が結集の時だ。
 古中古高百年史より、昭和26年(1951)県優勝時の主将の鈴木進選手の回顧録を取り上げる。この年代の先輩はご存命ならば齢86のはずである。

「私の甲子園について 鈴木進」



 遊撃手種村の左、二塁ベースよりのゴロ、グラブを出し、捕り、その儘二塁ベースを踏み、勝った勝ったと絶叫した種村の声が、今でも鮮明に思い出されます。
 昭和二十六年夏の全国高校野球甲子園大会県予選決勝、東北大会出場を賭けて、気仙沼高校を二対一で破った時の最後の場面です。
 その言葉が我々全ナインの気持ちを素直に、表現していました。当時は東北三県(宮城県、山形県、福島県)一校代表制でしたが、ずっと宮城県優勝校が甲子園へ出場していましたので、ひょっとしたら夢にまで見た甲子園に行けるかも知れない、そんな思いがして、レフトの守備位置からベンチに戻る時、雲の上を歩いている様な、そして涙が、ひとりでに、こぼれて来ました。生まれて初めての経験でした。そして又ここまで来る道程が、次々と浮かんできました。三年間の数々の試合の様子、大山部長、及川、永治他諸先輩の厳しい指導と叱咤激励、三年時の北海道修学旅行を辞退してまで練習に打ち込んで来た、同期のナインのひたむきな気持、又野球部が、それまで成績がよくないので、危うく、つぶされそうになった事等々何故斯様な事が、思い出されたのか、分かりません。
 あまり人間というものが嬉しさが昂じると、今迄経験した事の中で、それに関係あるものが、次々と思い出されると云うがそれかも知れません。翌日の決勝戦を迎えるまでの間、ナインを始め、周囲の人々の興奮は、想像を絶するものでした。決勝戦は、宮城工業と対戦し、8対2で勝ち、栄光の優勝旗を主将として、私が受取りました。
 この時も又涙が、あふれて来て、何も見えなくなりました。本当に野球をやっていて良かったと、しみじみ思いました。
 東北大会では、決勝で(*原文ママ 実際は初戦)、福島県大会優勝校安積高校と対戦し、2対3で破れ、甲子園出場の夢は実現出来ませんでした。
 結局、福島商高が、晴れの代表となり、甲子園では、中西太擁する高松一高と対戦し、2対0で、惜敗している。
 私にとって、甲子園とは、何だったのでしょう。高校三年間の夢を与えてくれた、シンボルだった。その夢を実現せんとして、一緒になって、汗まみれになり、練習し、努力し、苦労を分けあった同期のナイン。高校生活が、甲子園出場を目標に、他には目もくれないで、送れた事という事は、何と幸せだったと思います。
 甲子園出場の夢は果たせませんでしたが、又果たせなかったから、六十才近くまで、見果てぬ夢を見ているのでしょうか。
 野球を通じて、監督、部長、先輩、同級生等から学んだ情熱と努力、工夫の大切さ、それに、チームワークの大切さ、等が、今日までの私を支えてくれたバックボーンです。
 後に続く後輩が、甲子園出場を実現する迄、元気で、頑張っている積もりです。
 その時は当時の同期のナインと共に、甲子園に、是非応援にいきます。
 チームメイトのうち、駿足の二郷豊、強腕の佐藤義友両選手は既に、この世をさっており、全員でないのが、残念です。
 その時始めて、見果てぬ夢の、私の甲子園が、完結する事と思います。



参考:
https://furuko-baseball.blogspot.com/2011/10/blog-post.html



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