「せえべえ」さんからのメール。せえべえさんは古高の卒業生であり、私も知らなかったのですが、かつて1990年代に「古川高校を甲子園へ送る会」というのがあり、約5年間ぐらい盛んに活動を続けていたそうです。筆者のブログ「宮城県古川高校を甲子園へ」とは関係がありませんが、その当時の会則がなかなか面白いので掲載させていただきました。ありがとうございます。
「自分は完璧な帰宅部(郷土研究部)でしたが、
今も「母校は古高」であり、野球部はもちろん、
古高の活躍を見ると、血が騒いでいます。
ちなみに1986年の古高のサヨナラ負けは生の目撃者でした(笑)。
1992年頃は、10歳くらい年上の悪い先輩たちの「パシリ」をしていました。
この会は、テレビ局が関心を持ってくれて取材もされています。
テレビが来なかった日に、古高対沿岸部の某高校(原文は実名)の試合で
某高校のランナーコーチを先輩たちと「漁民」と野次ったら、
ランナーコーチが塁審にチクリ、私だけが係りの人々に
スタンドから退場させられるという屈辱的な経験もあります
(古高もコールド負け)。
実を言うと、息子が昨年の春に仙台市内の某高校硬式野球部を卒業し
私は野球部父母会事務局長でしたがよもや息子の卒後に、
こんな展開が待っているとは夢にも思いませんでした。
他県で甲子園に出た公立高校は大嫌いです。
古高こそが公立の星だと思っています。
今、宮城県の教育界も古高生が大勢います。
地元マスコミでも要職の立場に古高生がいます。
夢で終わらず、東北に希望の風をもたらして欲しいですね。
余計な話のついでを申せば、私の母親(故人)の実家は古川の塚目にあり、
古高の野球グラウンドの周辺は、私の祖父(昭和58年逝去)
私が高2の時に祖父は亡くなっていますが、生前、言葉を交わした記憶は
あまりなく、覚えているのは、祖父の家に行くと、南京袋にいっぱい詰まった
「古川高校」というネームの入った硬球(糸も、ほじくれ、黒ずんだ)と
ヒビの入ったバット(古川高校という文字がかすれて読める)を
無言で手渡されたことです。何度も、何度も、でした。
練習試合の息子の立ち合いやら、昨年の夏は息子ももういないのに
その卒業した高校との練習試合を観戦し、2両の陸羽東線やら、
外野を取り囲んだ瀟洒な住宅を眺めていて、思い起こされた記憶です。」

第4条(1)注意1、球場のフェンス、金網等によじ昇らないこと、は厳守されていたのでしょうか? 当時は1本のヒットでも「バンザイ」、金網によじ昇る、に憧れて応援に行った生徒もいたほどですが。。。
そして何より今はなき田んぼ。ボールがグラウンドのネットを越えたら、1年の一人は田んぼに入る為に走る。一人はボールの落下地点から視線を離さずその走って行った者が来るのをまち「もっと右だ、右」とグラウンドのネット越しにボールの飛んで行った方角を指示する。懐かしい思い出です。ゴム長で入って、泥にはまり込み、足を抜いたら、うおっ、ゴム長は泥の中、ボールは見つからず(注意。ゴム長と書いたが、筆者の記憶では裸足で田んぼに入るが大半。たまにゴム長)。練習試合の為に使用した真っ白な新球であっても、運よく見つかっても一度泥水に浸かったボールは重くなり、ティーバッティング用として再利用されることに。
ところで知る人ぞ知る塚目にあった「塚目チェーン」(駄菓子屋?)は今はどうなったのでしょう?
ところで知る人ぞ知る塚目にあった「塚目チェーン」(駄菓子屋?)は今はどうなったのでしょう?
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