行くぞ甲子園


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08 January 2019

星合愛人と古高校歌 3

「呼子鳥」台北文明堂書店 刊 著者 星合愛人





星合氏の第二の著作集、「呼子鳥(よぶこどり)」をあるツテをつたって台湾より入手した。これは短歌集である。星合氏の著作は、わずかに東京神田などで隈なく探せば手に入るようだが、いかんせん安くない。台湾で入手したものの為か保存状態は決して良くないが(頁が一つずつはらはらと剥がれてきている)、それでも当時台湾で発行されたものを、台湾で購入したのは日本で購入するより安価だという以上に大きい意味がある。ページの間より当時の星合氏が過ごした台湾の雰囲気が伝わってきそうではないか。

ところで呼子鳥(よぶこどり)とは一体何の鳥であろうかと調べて見る

と、カッコウやホトトギス、うぐいす、その他サルなどという説もあるらしい。万葉集から使用されている由緒正しい鳥なのだがその存在は謎のままであるとのこと。中には、鹿だと断じて、その名を冠した和菓子を販売している老舗の菓子屋もあった。

星合氏は宮城県古川中学(古高)を離れた後、福島県郡山市に移住している(赴任地は郡山市立安積第一小学校であろうか、その校歌を担当している)。郡山の市の鳥はカッコウであるから、彼の聞いた呼子鳥はカッコウの鳴き声の可能性が高いと思われるが、
以下、序文全文をできるだけ忠実に旧自体も再現して掲載しよう。*注釈は例によって私がつけた。
これは星合氏の直筆の揮毫かと思いきや、どうやら印刷のようだ




大正七年八月以降


「呼子鳥」は、私の第二の歌集で、大正七年八月から、大正十二年迄の作中から主として選びとり、その後のものを少し加へてなつたのである。私が、内地を去る前に、學友等のすすめによつて、第二の歌集を出すつもりであつた。そして、歌稿を整理してみたが、そのうちに渡臺することになつたので、志をはたすことができなかつた。渡臺するにのぞみ、多くの知友から、臺湾のうたを、どうぞ澤山よんで示してもらひたいと言はれた。自分もそのつもりであつたが、きて見る
と、歌はあまりよめなかつた。渡臺後は、日々の生活におはれて、境遇の變化から、歌をよむ気分にならなかつた。従って、歌壇に遠ざかるやうになつた。その間に、歌壇の趨勢はかはつて行った。三年の間、歌の世界をはなれた私は、丁度リップ、ファン、ウィンクル*1が、山上の眠からさめて、下界にまひもどってきたときのやうに、丸で調子がかはつてしまつて、一人のストレンヂャー*2として、廣い世界に、よるべなくたつてゐる自分を見出すのみであつた。實に、我ながら驚異の眼をみはるばかりである。
 しかし、自分は、どうしても歌の國に住んでゐたい。これは、歌に志した當時と変らない私の念願である。
 今年の夏八月、二男光が病んで重態に陥つた。医師のすすめによって入院することになつた。妻は、病兒の看護のために、付添として病院にとまって、今日で九十餘日病院生活をやつてゐる。その間に、色々の人達から、親切をうけた。今や退院の日がちかづいたことを喜んでゐる。
 子供達は、毎日病院に行く。私も、學校と、病院と、自宅と、三つの間を毎日往来しつつ、急がしい境地にありながら、病める兒の全快記念のためにと、この歌集を出すことに志した。
しかし、自分の歌集をひらきみつつ、實は心中甚だ寂寞を感ぜざるを得ないのである。何となれば、十年一日の如く、何等の進境をも見ないからである。自分が足ぶみしてゐるうちに、仲間は、皆走つてゐる。そして、自分はひとりとりのこされたかたちである。


 しかし自分の眼をもつて見れば、今の歌壇にも、満足ができない。自分は、左せず、右せず、中央を歩まんとしてゐる。しかし、白でもない、黒でもないものは、灰色である。旗幟が鮮明でないといはるる。蝙蝠は、鳥の世界からも、獣の世界からも相手にせられなかった。自分は、蝙蝠のやうなものである。鳥からも、獣からも相手にせられぬ状態である。しかず、ひとり自分のみちをあゆまんにはと、世間の毀誉褒貶*4は、敢てとふところにあらず、わが歌はんとおもふことを、眞にわれひとりのために、わが言葉で、わが調子でうたはんとしてゐるのである。
 私は、私の歌集に、呼子鳥といふ名をつけた、呼子鳥のさびしいなき聲には、花やかな何ものもない。人は、その聲を別段問題にしてゐない。しかし、呼子鳥そのものは、夜のあけより、夕ぐれそむるまで、ひねもすうたつてゐる。ひとからかへりみられようが、かへりみられまいがかまはぬ。眞にわれひとりのためにうたつてゐるのである。私が前任地郡山の麓山公園*5の家に住んでゐたとき、そのさびしいなき聲に、私はどんなにひきつけられたことであらう。
 私の歌は、呼子鳥の歌である。呼子鳥は、子を呼ぶ鳥とかく。私は、二人の子を失って、聲のかれる迄、精神的に妻とともに子を呼んだ。しかし、子はつひにかへつてこなかつた。三人目をも失はんとした。ここに於て、われらは、そのまごころの足らざるを思ひ、祈の心をひそめて、三度子を呼んだ。さうして、漸く此現實の世に呼びとめたその子の生命を記念するよろこびの歌集として、世に出たのは、このうたまきである。
 「草盧集」は、私の第一の歌集で、大正三年三月より大正七年七月迄の作をあつめたものである。これは、既に大正七年七月二十五日第一版を發行したものであるが、今回は「呼子鳥」の後に加へて改版したのである。改版にあたり、歌の順序をかへ、その頃の作にて、前回省いたものを新たに加へ、前回加へたものをも今回ははぶきなどしたので、多少面目がかはつた。これはやはり、當時序文でことわつたやうに、私の内的生活と、外的生活との反映であつて、我がつみし過去の記念塔である。此歌集を出したとき、多くの友から、また未見の友から、過分の賞賛と、奨励とを戴だいた。その當時、雑誌水甕、心の花、新人及萬朝報*6等で御紹介していたゞいたことを、深く感謝してゐる。また同門の歌人として、竹柏會やあけぼの會に、其人ありと知られた友人鵜木氏*7は、當時書を寄せて、私の歌を懇切に批評して下された。同氏の評は、最もよく私を知り、私の作を知る代表的のものであるから、これを掲載して、同氏に深く感謝の意を表することとした。
 本歌集をつくるにあたり、萩谷秋琴*8氏は、私のために、特に私の雅號にちなめる表紙の図案を御考へ下された。卽ち、わが故郷なる五城々下に、萩の名所として、名を天下にうたはれし宮城野の萩の花さく岡をめぐりて、ながるゝ水清き小川の辺りに思ひをはせて、神韻*9掬すべき意匠畫をかいて下されたことによつて、私の歌集は、更に一段の光彩を添ふるやうになつた。こゝに記して、あはせて氏の厚意を謝するものである。

昭和二年十二月

星合萩畔


*1 Rip van Winkle リップ・ヴァン・ウィンクル。浦島太郎のアメリカ版の主人公の名前。
*2 stranger, よそ者、流れ者
*3 きし。旗印。転じて立場、主張。
*4 きようほうへん。そしることと褒めること。
*5 はやまこうえん。福島県郡山市にある公園
*6 よろずちょうほう。かつてあった日刊紙。
*7 鵜木保。うのきたもつ。佐佐木信綱主宰「心の花」同人、研究会「三々会」メンバー、雑誌「短歌人」主宰。この掲載されている批評中に、彼が現在宮城県登米郡米山村在住であることが記載されている。
*8 明治8年茨城県高萩市生まれ。本名「伴雅(ともつね)」。日本美術院の研究生として、横山大観や岡倉天心らに師事する。大正13年より星合氏と同じ台北第二高女の美術教師となる
*9 神韻 絵画などの、優れたさま。趣。「ー掬(きく)すべき」その優れた趣を十分に汲み取って味わうべき




著者の実直な人柄が伝わってくるような前書きである。彼の他の著作を読んでも、これは宮城県古川中等学校 校歌を書いた人物に違いないであろうと確信させる文章上の特徴があって、決して装飾やごまかしができぬ文章そのままのまっすぐな性格を持った人物であったことが予想される。また、星合萩畔氏が宮城出身ということもこれではっきりした。


続けて、鵜木保氏による第一作の「草盧集」の批評が掲載されている。これがなかなか要点をついており、世代を超えてたまたま読んだ筆者にも納得できる星合氏の文章の特徴を正確に批評している。星合氏が述べている通りに彼を良く知る人物であるだろうから、この鵜木氏の文章批評はそのまま星合愛人というひとがどのような人物だったかを知る手がかりになるであろう。いくつか抜粋する。


(略)
 之を要するに、あなたの歌に對する態度は眞實であり、その作られたものは温雅である。衒氣とか、山氣とかいふ厭味は、微塵程も認められない。あなたの観たまゝ、感じたまゝが、その儘あなたの聲となつて響いてゐる。この場合、一向に他を顧みてゐない。世の流行がどうあらうと、讀者の注意をひかうとひくまいと、時には、所謂斬新と陳腐さへもと問はないといつた風がある。草蘆集の尊いところはこゝにあつて、議すべき点もまたこゝから来てゐると思ふ。
 正直のところ、あなたの作には、温雅なると共に、また繊弱なもの、平明なるものと共に、また陳腐なるものもなくはない。然し、一首としてうその歌はないと見た。どれも、これも、皆あなたが明瞭に現れて居る、「小さき波の一つにもいのちの光見する」と歌はれたそのあなたのいのちの光が、見えてゐます。時流に卓然として、ひとり自ら歌はんとするところを歌ふといふこの態度は、誠に見上げたものである。私が嘗て、あなたに與へて「その太眉の一文字のさやに直ぐなる性のよろしも」と歌つたのは、一寸直情径行のやうにも取れるが、實は移して以て以上の評言にかへてもよい。
 次にいつて置きたいことは、あなたは、自然に對しては極て静に、しんみりとながめ入って、殆ど自然とそのものと呼吸してゐるやうな一面があると共に(あかねさす空に動ける雲や、水の面に腹すりて飛ぶ燕の如き)人事に對しては、小兒のやうなあどけない諧謔を持つてゐることである。否、時には自然そのものさへも、この眼を以て観ることがある。例へば、めり/\とくだくる音が。小さき犬高き丘、
(略)
一體に、あなたと對座すると、非常に眞面目なお話も出るが、時に面白い滑稽も話される。私は、草蘆集を讀み行く間に、あなたの風貌が、眼前に浮んで、殆ど對座してゐるやうな氣が致しました。
(略)
殊に、悪口の方をもつと沢山申すつもりであつたが、一體にあなたの歌は、一度よりも二度と、讀み返して見ると、味が出て来て、最初の不満もいつか消えてしまう、誠に悪口するには、割りのわるい歌である。(略)

筆者の共感する点は、自然描写のうまさに比べて、人間生活の描写に関しては、「啄木調」とまでは行かぬだろうが、
やや厭世的で、斜に構えている点もあるだろうかと感じるところで、時代が閉塞的な時代だけにやむを得ないところもあっただろうが、いずれにしろ自然描写の妙に比べれば、やや劣っているように感じられる。それだけ自然の鑑識眼に卓越しているということではあるが。また、彼の序文に寄れば子息を二人失っており、全編を通じてタイトルが示すとおりに子を呼ぶような悲哀に満ちた歌集になっているように思う。

筆者は歌に関しては全くのズブの素人であって、批評の才を持たぬから、鵜木氏が選定した星合氏「草盧集」中の優れた作品を掲載することで、古高校歌の作詞者がいかなる人であったかを想像してもらうことにしようと思う。







イ やがてまたあふ日あらんと強ひていへどそのあふ日とはいつにかもあらむ

ロ 障子をばはりかへをへぬ年の暮ゆたかにをあらむ心ばかりは

ハ 水の面に腹すりて飛ぶつばくらめつかれ心に見入るなりけり

二 足一歩ふみ出しけり此の上はいかにもなれど身をのろひつゝ

ホ 孑孑は蚊になるまでの浮沈みわがうきしづみ何になるまで

へ ふと立ては朝の床にさし櫛の落ちしを拾ひ妻は出で行く

ト ぬふ針と同じき道を針の目にひかるゝ糸の如く来よ妻

チ 雨にきらふ大海に入る馬入川川口廣く白波の立つ

リ 千代紙を母のかたへにきりし兒のかりそめごとも思出となりぬ

ヌ なが墓は祖父と叔父との墓のそば安らに眠れさびしくあらじ




本の題名になった呼子鳥の歌。五十鈴湖(いすずこ)は同じく郡山にある開成山公園内にある湖。


子息を失った氏の悲しみに溢れる歌の数々。






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