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02 June 2019

学友会の発足 古中古高百年史より/「ローンテニスとベースボール」 一回卒 富士 省三


*吉野作造記念館、および「古川野球史」によれば、古川にベースボールを初めて伝えたのは吉野作造であるらしい。吉野作造は当時、宮城県尋常中学校(現在の仙台一高)を卒業したのち、旧制第二高等学校(現在の東北大学の前身)に入学したばかりであった。この「古川へのベースボールの移入」は、「現古川高校へのベースボールの移入」とほぼ等しい。つまり、我が古川高校野球部は、「大正デモクラシーの吉野作造(ら)によって伝えられた」由緒正しい野球部なのである(これを読んで今からでも入部したくなった新入生は、将来後悔しないためにも青春を古高野球部にかけるべく入部されたし)。


吉野作造(明治11~昭和8年)

古中古高百年史によれば、尋常中学校志田郡立分校(現在の古川高校)一回卒の富士省三氏が、古川に帰省していた吉野作造からローンテニスを紹介されたその時期に、ベースボールも彼によって紹介されていたということになるだろうか(下記参照)。宮城ではまずベースボールは旧制二高(現東北大学)にもたらされ、二高にチーム機構が確立したのち、各地の中等学校へ指導のかたちで伝播していった。その二高の学生の役割を担ったのが、吉野作造であったわけであろうが、これは年代的にも合致する(もっとも、吉野作造自身は部(会)に入るほど熱心だったわけではなさそうだが)。



この間の時代変遷は以下のようになり、明治31年には尋常中学校志田郡立分校のベースボール部が設立されていることから、吉野作造が古高にベースボールを伝えたのは明治30年、志田郡立分校の開校とほぼ同時期、彼が二高の一回生だった年、それは二高にベースボールが伝わってまださほど時間が経ってない頃のことだった、と推測される。

明治11年 吉野作造、現大崎市古川十日町に生まれる

明治25年 吉野作造、宮城県尋常中学校(現仙台一高)へ入学

明治26年 二高(現在の東北大学)ベースボール会創設

明治27年 初の二高ベースボール選手選出

明治30年 吉野作造 二高法科(現在の東北大学法学部)へ入学
      尋常中学校志田郡立分校(現古川高校)創立

明治31年 尋常中学校志田郡立分校(古川高校)ベースボール部創設

明治33年 吉野作造、東京帝国大学法科へ入学 尋常中学校志田郡立分校、宮城県第三中学校と改称




高野眞五人(まさと)著、野球事始仙台物語(無明舎出版:写真)によると、二高最初の選手である杉本五十鈴氏は以下のような回想を述べている。

「二高で野球の「マッチ」をやり始めたのは何年頃かちょっと記憶していない。自分は明治二十五年に入学したのだが、その時分には無論なかった。多分二十八年か二十九年からだろう。しかし、寄宿舎の窓下で高山樗牛君がキャッチボールをやっているのを記憶しているから、球いじりは早くからやっていたように思われる。(中略)兎に角、一高から山田浩蔵君が転学してきてから盛んになったし、上手にもなってきたことは事実だ」

高山樗牛(たかやまちょぎゅう)明治後期の文芸家、批評家。のちに二高の教授となった。

仙台に野球が広まってきたのち、かなり早い時期に古川高校にもベースボールが伝えられていたのである。残念ながらこのベースボール部は明治42年に一度解散の憂き目に遭うのだが。。。(古高「野球部」の正式な創設は大正10年まで待たなくてはならない。もっとも、同じルールの競技を行っていた以上、部の創設は明治31年まで遡るという議論も今後出てくるかもしれない)。

再掲 古高野球部の歴史





古中古高百年史より

「学友会雑誌第ニニ号・創立二十周年記念号」(大正六年五月三日刊)の学友会小史によると、一八九八(明治三十一)年六月二十三日学友会が発足した。

 名称は宮城県尋常中学校志田郡立分校支部会で分校主任が支部長となり、各部には部長一名、委員三名を置いた。部の数は次の八部である。

 文芸剣槍体術弓術ベースボールフットボールローンテニス漕艇遊泳の各部。

この内、開設と共に活動を始めたのは、弓術、ベースボール、フットボール、漕艇の四部である。

ローンテニスは同年九月、剣槍部は十月、文芸部は十一月、体術部は翌年一月である。同年四月中学校令の改正により校名が宮城県中学校志田分校となり会名も改称した。学友会発会式は十一月校庭において盛大に行われた。

宮城県尋常中学校学友会総則
第一条 本会ハ会員ノ心身ヲ鍛錬シ風紀ヲ振粛シ交誼ヲ敦厚ニスルヲ目的トス
第二条 本会ヲ宮城県尋常中学校学友会ト称ス
第三条 本会ハ本部ヲ宮城県尋常中学校本校ニ設ケ分校ニ支部ヲ設クルモノトス(以下省略)

翌三十三年四月本校は独立したことにより、宮城県第三中学校学友会と改称した。当時は各部の小会を随時開催し、大会を春秋二回開催、運動会にも各部の競技を加えた。
 同年五月総会を開きローンテニス、漕艇、遊泳を廃し、各部に部長、副部長一名及び委員五名を置くことになった。ローンテニスの廃止は経費上の都合によるもので生徒の有志は自費で活動を続けた。漕艇、遊泳の廃止は付近に適当な場所のないことが理由であった。

 同三十四年十二月体術部に初めて山形県鶴岡町の松浦某氏を師範として委嘱した。氏は渋川流の旧庄内藩の師範で本校に於いて体術の型を教授した。

 同三十五年六月臨時総会を開き本会規則を改めて、雑誌発行と会費増徴を議決した。
 同年十一月片桐英一氏を体術部師範に委嘱し、体術部を改めて柔道部と呼び、講道館流の乱取を教授した。

 同三十六年三月学友会雑誌第一号を発行(100ページ 年三回発行)同年四月規則を改正し遊泳部を再興し、職員幹事を一名とし、雑誌部を設けて部長副部長委員を置いた。

 同三十七年四月校名が宮城県立古川中学校となり会名も改称した。

 同三十八年四月規則を改正しローンテニス部を再興、着任した児玉校長は殊に武道を奨励し撃剣部の指導には直接道場に立ち、又、地方剣士を招き剣道大会を度々開催し、わが撃剣部は地方に異彩を放った。

 同四十二年には野球部を廃止し運動会を春季の一回に改めた。

 同四十三年糟谷校長着任、規則を改正し、幹事を理事と改める。糟谷校長も武道を奨励し、殊に弓術部は大いに面目を改めた。
 
縣立宮城縣第三中學校學友會規則
第一條 本會ヲ縣立第三中學校學友會ト称シ生徒ヲ會員トシ職員ヲ客員
トシ卒業生を會友トス
第二條 本會ノ主ナル目的ハ左ノ如シ
一 學友ノ親睦ヲ計ル
二 團結心ヲ養成ス
三 修身上ノ講話ヲナス
四 心身ヲ鍛錬ス
五 辯論ヲ練習シ智識ヲ交換ス
第三條 本會ノ目的ヲ達センガ爲メ本會ニ左ノ各部ヲ置ク
一 文藝部 二 雑誌部 三 撃劍部 四 柔道部 五 弓術部 六 ベースボール部 七 フットボール部 八 遊泳部
第四條 本校生徒ハ皆本會々員トナリ随意ニ各部ノ部員トナルベシ 但シ必ス第一、二部及其他ノ二部以上ノ部員トナルヘシ
第五條 (以下略)



「ローンテニスとベースボール」
一回卒 富士 省三
 本校は仙台一中(今の仙台一高)の分校として明治三十年に志田郡役所(現古川市庁舎所在地)内の郡会議事堂を教室として開校し、本県では仙台二中に次ぐ三番目の中学校として誕生したのである。七月下旬から夏季休業(当時土用休暇と云った)となりボンヤリ家で遊んでおると友人が迎に来て学校に行ったら吉野作造、大泉哲、伊沢宗平の三先輩が居てローンテニスをやるから手伝えというのである、郡役所敷地内の東側の空地(現在では全く想像もつかぬ程変貌したが、今の市役所正門より少し東寄りに郡役所の正門があり、其門を入って正面が郡役所、左側の水道課の建物より北寄りに郡会議事堂があり、右側の松谷寄りの空地が軍馬購買のための馬の繋留場であったから、開校当時の吾々には唯一の運動場であった)の雑草を抜き取り藁縄を張ってラインを作り、長い杭を二本立ててネットを張り豆掬いのようなラケットというものを持って相対峙した。ルールの説明をきいたが現在と殆んど同じようであった。初めて見るものばかりで物珍しく草履を履いたまま駈け廻ったが、動作も至って緩慢であった。此年一番弟子として稽古を受けたのは今は大部分故人となったが、記憶に残っているのは早坂奥郎、亀井一郎、青木豪次郎君と私の四、五人であった。現校舎に移った翌年も翌々年も、吉野先生だけは夏休みに欠かさず指導して下された。何分ラインに縄を張ってあるので後退に夢中になって踵を引掛けて顛倒したり、縄を切ったりすることも稀ではなかった。ネット用の杭なども、同じ場所でベースボールをやる関係上埋設しないで、ネットを張る都度立てるように孔を明けておくので、ネットも余り緊張せずダラシない格好だしベースボールをやった後には、縄ラインを張りかえる始末だった。それでも五年間も通した連中は一廉の腕になったが、当時は対抗試合もなく鳥なき里の蝙蝠だった。
 又野球の方はベースボールと称え、二学期の開始と共にテニスコートと同じ場所で始められた。運動好きの連中を集めて稽古をしたが、今のように強い球は出せなかったけれど、ミットだのグローブがなく硬球を素手で掴むのだから中々辛かった。私も最初はメンバーに入れて貰ってやり出したが、一か月ばかりの間に左手の中指に強球を受け激痛を覚えてから野球に見限りをつけ、テニス専門となった。初めの間は同一人でテニスと野球との兼業というのも居たが次第に分れて何れかに一方づくようになった。郡役所での野球は場所が狭い上に松谷の屋根は近いのでヘボでも簡単にホームランになって了う、お仕舞には長梯子を掛け放しにして試合をするという珍風景が見られた。誰人が野球を移入して来たのか私には記憶がない。(『六十周年誌 回顧録』)


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