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20 January 2019

古高激闘の記録(11) 野球部の歴史と応援歌の由来 (古中古高百年史より)1/19/19

(注意 本日大学入試センター試験と聞きしが、センター試験受験せる受験生、試験終わるまで読む可からず)

*古中古高百年史をようやく閲覧することができた。これは非売品である。どのようにと言えば図書館から借りたのである。誰がと問われればもちろん私でなく、知人が、である。持つべきものは友達である。色々な新事実が書かれていて実にためになる。時間をかけていろいろ吟味していこうと思う。今回はまず「野球の歴史と応援歌の由来」の節について。




「野球部の歴史と応援歌の由来
野球部の創部はすでに本校開校の翌年、一八九八(明治三十一)年であったが、一九〇八(明治四十一)年事情により廃部となった。その後、大正十年に復活した。復活当初は入部希望者も少なく、辛うじてメンバーを揃える状態で、特別の指導者も不在で部員達が自主的にルールをおぼえ、練習不足のため対外試合をしても大敗することが多かった。

野球部報「学友会雑誌」二十五号(大正十二年発刊)

素山倶楽部来襲記
 十月十一日!此の日こそ、我等がナインが、待ち焦がれた素軍との決戦日であつた。素軍来襲!四百の兄弟は無論の事町の有志者諸氏からまで、種々と力附けらるゝ、後援の聲を聞いた時、一年に唯一度の外来チームとの試合なる事を思ふ時、將又昨秋我等が敬愛する先輩諸兄が彼と戦つて、日沒の為ドロンゲームと宣せられたりしを顧る時、それは我等にとつては、實に関ヶ原と、大阪夏の陣が一度に來たの感あらずんば非ずであつた。主將星野病篤くして故山に歸りしよりは、全軍の意氣は兎角乱れ勝であつた。そして我等ナインの中には、自轉車通學もあり、汽車通學もあり、或は課外授業に入つてる者等で、九名の正選手が完全に揃つて徹底せる練習をする事は、殆ど不可能であつた。加之縣の武道大會が次第に迫つて来る、快漢千葉は我が部の重鎮であると共に、亦、劔道部の巨將であつた爲之も氣が氣でなかつたのである。
 けれども我らは蔭乍ら星野主將の采配を胸に描きつゝ瀧なす汗を浴びて猛練習した。唯一人の親とも、師とも頼るべくコーチャー松宮氏の叱咤の聲に、疲れ切つた肩に、盡き失せた勢力を呼び戻しつゝ、赤陽西栗駒に歿する迄、我等は必死の努力を續けた。そして微か乍らも次第に進歩する技倆は自信なきまでも微笑まずには居られなかつたのである。

 然るに、星野主將を失つた我等は、再びそれと同じ様な打撃を被らねばならなかつた。それは四年唯一の花形、我部秘藏の二塁手、阿部が母上の訃に接して突然歸省した事である。全く夢にだに思はぬ打撃に打撃を被り、戦はん哉の、燃ゆる焔は次第に熱なきものに至りつゝも遂に十月十一日は到來した。
 この日は、照りもせず、曇りもはてぬ絶好の野球日和であつた。生々しい石灰でラインは引かれた。白い新しいユニホームに古中のマークを浮き出させ、勢揃ひして陣頭に向かつた。午後三時半!數百の彼我の後援團の拍手に送られつゝ石川(球)仲野(壘)兩氏の兩審判の下に愈々戰の幕は切つて落されたのである。
 然し乍ら天は我等に與しなかつた。一回又一回、形勢は次第に惡化して、惡戰苦闘の有様になつた。藤本投手も元氣なく御得意のスピードも少しも効を奏せず、齋藤代つて、プレートに立つた。正確なコントロールとインカーヴに敵の膽を抜いたが、如何にせん對外マツチの初陣、然るに、之に對して敵は投手を代るや、我の打撃は全く封ぜられ、無念の涙を飲んで遂に兜をぬがざるを得なかつた。時に五時半、徒らに先輩の作つた榮ある歴史を傷け、光輝あるグラウンドを汚したその罪、全く申譯がない。敗軍の將兵を語らず、唯願はくば後に残る諸君等よ前者の轍を履む事なく、常に練習を重ねて必ず此の辱を雪がれん事を。

 当時の野球部のミット、グローブなどの用具は不十分でユニホームも揃わなかった。二三(大正十二)年の春卒業した二二回生の小野寺誠毅氏が卒業生仲間に呼びかけ一〇円余の寄付を集め不足分は自弁で賄い、上級学校進学のため上京すると間もなく、美津濃から野球帽、ストッキング、FURUCHUのマークなどを購入して、自ら作詞、作曲した野球部応援歌を添えて届けられたのであった。その応援歌は多くの同窓生に歌い継がれ現在に至っている。(「古高の七十年」より)」



*第一高等学校の野球部の中馬庚(ちゅうまんかのえ)が卒業にあたりその部史を発行することになり、ベースボールを「野球」と翻訳するのが明治27年(1894)年であるが、これが全国的に普及するのはもっと先の話である。

明治30年(1897年)、中馬は一般向けの野球専門書「野球」を5月に出版し、「ベースボール」の訳語として「野球」が一般に登場したが、雑誌や新聞で「野球」という言葉が使われるようになるなど一般的な認知を受けるのは、それから5年ほど後のことになる。”  - Wikipedia

したがって、翌明治31年創部と言われる尋常中学校志田郡立分校の初代野球部は、「ベースボール部」と名乗っていたのが正しいだろう。尋常中学校志田郡立分校ベースボール部。洒落ているではないか。この方がいいかもしれない。「君、何部?」「古高ベースボール部です。」よし今度からこれで行こう。

 Baseballを「野球」と訳したのはどういう理由によるのだろうか?"Fieldball" ならば"野球"が適格な訳であろうけれども、Baseball, base=塁、と訳したからには、これは”塁球”になるべきではないか。ちなみに中国、台湾では「棒球」だ。これはこれでイメージとして分かりやすい訳ではある。

 この素山倶楽部とは一体どこのチームだろう?かつて、仙台に仙台素人(アマチュアと読ませる)倶楽部というチームがあったらしいが、この場合「素山」である。筆者の類推に過ぎないが、旧小牛田町に「素山(そやま)」という地名があり、素山球場というのがある。その付近に存在したクラブチームではなかったろうか。

ちなみに、このユニフォームは先頭の文字が判読し難いが、"KOCHU"か?古中(コチュウ)のKOCHUである。高知商業の”KOCHI”と似ている。

 「野球部の歌」の小野寺誠毅氏は上京したのちに従軍カメラマンになったのか、従軍写真集を発行している模様。また、北浦村長、宮城県農業共済組合連合会会長などを歴任したようだが確かなことは分からない。ただ、この古高野球部の歌をみずから「作詞・作曲」してしまうとはただ者ではない。当世のシンガーソングライターといったところである。この小野寺氏の名前で検索していると、「農民の家音頭」なるものにぶち当たった。この農民の家自体は昨年惜しくも閉館になったようだが、それとともに農民の家音頭も消滅することを惜しんだ方がブログにアップしてくれている。


https://video.fc2.com/content/%E8%BE%B2%E6%B0%91%E3%81%AE%E5%AE%B6%E9%9F%B3%E9%A0%AD/201806163TGHG5sc/&tk=TWpjM05UYzVNRGM9

昭和の演歌ティストに骨の髄まで浸かって一杯やりたくなるこの「農民の家音頭」も、作詞も作曲も小野寺氏である。どことなくその哀歌調のメロディが、我が野球部の歌に似ているのではないかと思っていたら、はたと気づいた。ためしに野球部の歌を半分、1/3のスピードで再生してみるといい。あれも立派に「ア、ソレソレ」と合いの手を入れて、盆踊りのリズムに乗っていけそうではないか。あの古高野球部の歌のメロディに当初覚えた幾ばくかの違和感は、こういうところに依拠していそうである。

いずれにしても小野寺氏、多才な人物であったことは間違いないだろう。

 最後に、古高野球部の歴史を校名の変遷とともにあらわすとこういうことになる。↓ 正式な野球部の創部は大正10年だが、その前に空白の12年、さらに明治31年創部以来11年続いたベースボール部の歴史があるのである。さて、「野球部」創立99年目に、その何かが起こるや否や?



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