2012/12/20

署名活動のお知らせ2

田村選手に関して

次回署名活動のお知らせ

12月23日(天皇誕生日)10時から。
および 
1月14日(成人の日)。


田村選手のミットがほぼ完成したとのこと。
本物そっくりである。







2012/12/02

いざ立てよ我らが野球部!


今年7月8日に田村さん(写真右)が野球部の横断幕を渡しに行った際の写真です。朝日新聞から提供されたものだそうです。OBの皆さん、ユニフォームと坊主頭を見ると、いつの時代も古高野球部は変わらないですね!

キャプテン、メンバーも非常に良い顔をしてます。野球部は他の生徒が私服の中、異様に日焼けした顔に学ランですぐ見分けつくのが特徴でした。

貴重な青春時代をただ白球を追うことだけに懸ける。。。
頑張れ、古高野球部!いよいよ古豪復活だ!!


2012/11/26

お知らせ。

田村選手の地元同級生 大学の野球部の仲間が中心となり署名活動をするとの事。

於・仙台・東二番町かどダイエー
12月1日 11時から昼の時間街頭署名活動。



署名のお願い

 昨年3月11日、東日本大震災が発生しました。宮城県仙台市に本店を置く地方銀行(株)七十七銀行の女川支店において、大津波警報発令後、支店長の指示にて行員13名が2階建ての支店の屋上へ避難し、津波に襲われるという事件が発生しました。
1名は奇跡的に漁船に助けられましたが、残りの12名のうち、4名は死亡し、8名が行方不明のままです。あの時、津波が来るまで30分以上も時間がありながら、なぜ、13名は屋上にとどまらなければならなかったのでしょうか。走れば1分で行けた高台(女川町の指定避難場所・堀切山)があったのに、なぜ、屋上で待たなければならなかったのでしょうか。

女川町には他の銀行もありましたが、大津波警報発令後すぐに高台へ避難しています。なぜ、七十七銀行だけがこのような結果になったのでしょうか。

 これは銀行の管理下で起きたことです。会社の危機意識、従業員の命を守るための安全管理はどうだったのでしょうか。

今年9月11日、震災から1年半の節目に、私たちは、七十七銀行を相手に安全配慮義務違反に基づく損害賠償請求訴訟を提起致しました。原因があったからこそ、こうした悲惨な結果が出たのです。この裁判において、私たちは、これまでの銀行の防災体制や当日の本支店の対応など一つ一つを検証し、原因を究明していく予定です。そして、二度と同じことを繰り返さないために、再発防止策の確立を働きかけていくつもりです。
 昨年4月、頭取からは家族に対して「人災」という言葉が出ましたが、昨年9月の家族への説明会では「道義的責任」へと変わりました。その後は「やむを得ない判断だった」と責任逃れに終始しています。銀行からは検証結果の報告も再発防止策の説明もありません。

私たちは、七十七銀行に対し、企業の法的責任を認めさせた上で、きちんと謝罪させ、抜本的な再発防止策を提示するように、求めていく考えです。将来予想される東南海地震・首都圏直下型地震に備え、本件を教訓として、本件を風化させず、来るべき震災においても、「大切な命」を1人でも多く守れるようにと強く願っています。

皆様におかれましては、上記の趣旨をご理解いただき、(株)七十七銀行へ提出するための署名にご協力いただきたくお願いいたします。お手数をおかけいたしますが、署名していただいた用紙は、第一次集約として、平成25年1月末日までに、同封の返信用封筒にてご返送くださるようにお願いいたします。署名用紙が足りない場合は、コピーしてご活用いただきますようお願いいたします。
最後に、皆様のあついご支援を賜りますようどうぞよろしくお願い申し上げます。


2012/11/13

田村孝行様より 2


古川高校野球部 皆様へ

                      田村 健太 父 孝行

 
平成24年度卒業の三年生の皆様には、特に夏の大会前に、突然震災で被災した先輩(健太)の話に接しどの様に受け止めたら良いのか戸惑わせ大変申し訳ございませんでした。また下級生の皆様にも同様だったと存じます。

しかし、皆様にはこの古川高校又古高野球部を誇りに心に思い続けていた、今は亡き健太を先輩として夏の大会のベンチにまで連れて頂き、本当に胸に余る嬉しさ誇りを健太と一緒に重く心に受け止めさせて頂き深謝申しあげます。
今後とも、健太そして私の母校 古高を応援しながら生きる力を得ながら日々「諦めず」人生を歩んで行きます。

 そして皆様にとっては、今は、何気ない毎日と思う時も時には有ると思います。しかし今は通過点です。野球も通過点、人生も通過点です。今、古高生活で様々な絆が生まれたはずです。その絆を永遠に繋ぎ続けひとりひとりの人生の歩みの糧として歩んでください。

 古川高校は、人生のスタートラインと言っても過言ではありません。母校で学んだ「質実剛健」の志は体に染みついています。互いに諦めず歩んで参りましょう。
 
ONE FOR ALL (一人一人がみんなのために)
     「夢をありがとう」・・・・・・・・健太

古川高校 野球部の歌
1. 立てよいざ立て我が友よ  戦わんかな時至る 
  正義の楯に赤熱の
  血潮たばしる我等がナイン

2. 彼に孫呉の術あらば
  我に竜虎の智勇あり  
  戦の庭の花吹雪
  散らさで敵を帰すべき

そして、いつかこのグランドで再会しましょう。有難うございました。


田村健太選手のユニフォーム






*古高グラウンドに来春、モニュメントを飾る予定があるという。また、年度毎の選手名簿をプレート化してグラウンドに掲げ、いつでもOBがグラウンドに戻って来て当時の自分を思い起こすことが出来るようにする計画とのこと。詳細が決まり次第またお伝えしようと思います。
田村選手が飼っていたという犬ココ。紫の花を見つめる

田村選手が持っていた凌雲

田村選手が持っていた応援手ぬぐい






              

田村孝行様より


*田村健太選手の父上様よりご縁がありまして連絡をいただき、今季夏の大会前に古高野球部に寄せた激励の文章をいただきました。御好意により、ここに全文を掲載させていただきます。




                         平成24年7月12日
宮城県古川高校 
藤倉先生殿 佐々木先生殿
硬式野球部各位

拝啓、過日は鈴木校長先生はじめ藤倉先生・佐々木先生また野球部皆様の卒業生へ対して温かいご配慮に心より深謝申し上げます。
下名も古川高校に憧れ入学し文武両道・質実剛健の精神を学び昭和54年卒業の時は図南歌の最後の歌詞に「鉄腕熱血生気みち学びの校舎巣立つ時 あ、猛者の眼につゆ宿る」
とありますが、日々今が有る事は古高で学んだ伝統の中から頂いていると感じ図南歌は自分自身の生きる勇気の応援歌と思い続けております。
その人生の中で、結婚をし男の子が生まれたらとにかく子供は古高へ入学し野球を文武両道の精神で甲子園を共に目指すと人生の中の一つの大きな目標としそこから得たものを様々な方へ感謝の気持ち込め社会に微力ではありますが息子と親子鷹で取り組んで行きたいと思い日々少しずつ歩いておりました。その息子が健太でした。大学時代も野球を続け銀行に入行後も時有れば野球しておりました。今回の震災にて行方不明になり健太の寮の部屋に入ると銀行の資格試験の勉強と野球の様々な本が山と積まれており、また自宅の健太の部屋には高校時代の他校の選手名を書き1人1人の配球など考えていたメモとか有り、野球・古高に関するものが多く有りました。今は健太のもの全て見る状況ではありません。しかし今回古高の皆様からの心温まるお声かけにより9年ぶりに古高の校舎また野球場へ足を踏み入れる事出来皆様のお陰にて少し前に進みかけております。そして10日の朝野球部諸君の姿を見なければ今後下名の目標を明確に宣言出来ないと思い名取市民球場へ足を向け皆様と同じ雰囲気を感じ同じ気持ちになりたかったのです。試合は惜敗でありましたが、本当にこれまでの皆様努力は素晴らしいものが有ります。1つ1つの言動の素晴らしさ感じました。今後も後輩諸君に繋がると確信します。久々に当時の健太の時代また卒業後後輩の試合と同じ緊張感また心の高ぶりを感じ今後健太また様々な先輩・後輩が甲子園を目指し汗や涙を流したグランドで下名微力ながら野球部の皆様また古高生のご支援出来る活動をして行く所存です。これも今回母校の皆様に頂いた健太と下名の第二の目標となりました。「夢・ありがとう」この言葉も健太の帽子に書いてあります。この言葉を大切に親として同窓として甲子園・古川高校の更なる発展へ「夢叶は叶えるもの」ゆっくり皆様の足で惑いにならぬ活動を模索し実行して参ります。取り留めの無い文で失礼しました。皆様に早々に感謝の気持ちだけお伝えしたくお送りさせて頂きます。改めてグランドで御礼致します。今後とも宜しくお願い致します。[ONE FOR ALL]本当にありがとうございました。

                   田村 健太   父 孝行
                                   敬具

藤倉先生殿・佐々木先生殿

本当にご多忙の中、ご配慮して頂きありがとうございます。今回、野球部の皆様の
ひた向きさを見て改めて何か心動かされるものありました。
健太の一番愛する野球を通じまた古高を通じ目標かかげ進む方向がより明確で
今まで行っていた事も継続しながら何か微力ながら自分自身また周囲の方に
良い影響が出るかもしれません。三年生の夏は終わりましたが今後とも彼らの素晴らしい夏は継続すると思います。自分にとっても印象に残る夏となりました。
今後の練習試合等日程開示して頂ければ幸いです。
時間を見てグランドに行かせて頂ければ幸いです。宜しくお願い致します。

                               田村拝


健太選手の実際に使用したミットと、彼のお墓に添える予定というミットの置物。




2012/11/01

田村健太選手に関する続報

朝日新聞より転載↓
http://mytown.asahi.com/miyagi/news.php?k_id=04000001210310002




七十七銀行側、争う姿勢示す 女川支店訴訟

2012年10月31日

 12人が犠牲になった七十七銀行女川支店(女川町)を巡る損害賠償訴訟。30日の第1回口頭弁論では、安全配慮を怠ったとする遺族側に対し、銀行側は争う姿勢を示した。遺族らは意見陳述を通して、この19カ月間の苦悩を訴え、改めて銀行側の責任を追及した。
 原告側の訴状によると、亡くなった行員らを含む従業員は震災後、支店長の指示を受けて2階建て支店の屋上へ避難。海の沖を見張ることなく、海面のほとんど見えない屋上で30分もの時間を無為に過ごした、と主張している。
 これに対して銀行側は、答弁書で海面の一部は見ることができたと反論。支店長が、行員らに片付けを最小限にして避難するよう指示したことも主張した。そのほか具体的な内容については「追って主張する」としており、銀行側の代理人は「2カ月近く期間をいただきたい」と述べた。
 この日は、遺族らが意見陳述した。行員だった田村健太さん(当時25)の母弘美さん(50)は「息子は会社を信じ、支店長を信じて命令通り行動した」と強調。「走れば1分で行けた高台があったのに、なぜ屋上へとどまらなければならなかったのか。我が子が想像を絶する恐怖、絶望感を味わったのかと思うと、つらさ悲しみを超え、強い憤りと自責の念を感じる」と訴えた。
 行員だった丹野美智子さん(当時54)の母長子さん(81)の意見は弁護団が代読した。屋上に避難したことを銀行側が当初、「判断ミス」だったと認めていたと主張。「その言葉は全て覆され、すべて津波のせいにされた。代われるものなら代わってあげたかった。生きているのがとてもつらい」と訴えた。
 今も行方が分からない同支店のスタッフ高松祐子さんの夫康雄さん(55)は「12人の命を無駄にしないため、責任を認め謝罪してほしい。原因究明し、再発防止策を提示することが企業としての責任だ」と投げかけた。(小野智美、高津祐典)
 原告3家族の意見陳述、第1回口頭弁論後の原告団の記者会見の主な内容は次の通り。
    ◇

2012/10/28

田村健太選手に関する続報


㈱七十七銀行女川支店被災者家族会のブログ↓


10月30日11時より第1回口頭弁論 仙台地裁


*この古高野球部ブログでは、この問題に関して積極的に言及することはありません。が、同窓の田村選手が亡くなった重い問題を含んでいます。よって、真実が明らかになることと、今後の再発防止につながることを切に希望しております。



田村選手とその家族を取材している朝日新聞社・小野智美記者のブログ↓

田村健太選手に関する続報

河北新報コルネット↓
http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1062/20120912_03.htm


七十七銀を提訴 女川支店行員らの遺族「高台避難させず」

東日本大震災の津波で七十七銀行女川支店(宮城県女川町)の行員ら12人が死亡・行方不明となったのは、同行の安全配慮義務違反のためだとして、行員ら3人の遺族が11日、同行に計約2億3000万円の損害賠償を求める訴えを仙台地裁に起こした。
 訴えによると、昨年3月11日の大地震発生後、支店長は行員らに対し、支店の施錠や屋上への避難を指示。支店長を含む13人が屋上にいた同日午後3時半ごろ、津波が支店に到達して13人が流され、1人は救助された。
 支店は、リアス式海岸の凹部の女川湾から約100メートルの場所に立地していた。支店から高台にある指定避難場所までの距離は約260メートルで、ゆっくり歩いても3分半ほどで着くという。
 遺族側は「支店長は屋上に逃げれば安全だと軽信し、漫然と時間をつぶした。同行は『屋上に避難する』との支店長の連絡を黙認した」と主張。
 「女川湾の地形に照らせば、津波が通常の場所よりも高くなるのは明らか。だが、立地の特殊性に合わせた店舗設計をせず、支店長に十分な安全教育をしていない。指定避難所への避難訓練もなく、災害への準備がおろそかだった」と述べた。
 同行は11日、「捜索やご家族への訪問など誠意をもって対応を続けてきた。一部のご家族にご理解いただけないのは残念だが、今後も真摯(しんし)に対応していく」とのコメントを出した。

2012/09/03

秋季北部地区 結果

 【北部】(南郷球場)
 ▽Aブロック敗者復活戦準決勝
古川工 7-0 黒川
利府 10-0 古川


2012/09/02

秋季北部予選 結果

【北部】(南郷球場ほか)
 ▽Aブロック準決勝
富谷 5-1 迫桜
大崎中央 12-3 築館
 ▽Bブロック準決勝
一迫商 10-8 古川工
古川学園 9-0 古川

2012/09/01

秋季北部予選結果

8月25日

【北部】(南郷球場ほか)
 ▽Aブロック1回戦
迫桜      6- 2 鹿島台商
富谷      5- 4 利府
 ▽Bブロック1回戦
古川工    11- 1 岩ケ崎
古川     11- 1 中新田

2012/07/21

新チーム始動。


今年の準決勝は仙台育英対聖和学園、利府対東北。
まだ宮城大会がたけなわではあるが、新チームは来期の躍進を狙って始動開始というところだろう。
自分が負けた時を思いだす。それまで野球が生活の中心であったのに、それががわりと変わる。
負けた悔しさでとてもじゃないがすぐに心機一転とは行かない。
そんな思いに決着をつけるために、私は準決勝を見学に当時の宮城球場へ行った。
まだ戦っている同級生が羨ましく思えた。


3年生諸君は残念ではあるが、高校野球が人生の終わりではないので、
野球への情熱が冷めない方はひとつでも上を目指してこれから頑張って欲しいと思います。




以下、練習試合等の日程を入手しましたのでお知らせします。


新チームのおもな予定
7月22日(日)柴田農林(柴田農林高G)
26日(木)石巻北(古川高G)  ※旧河南高校
8月 2日(木)鶴岡東(鶴岡東高G) ※旧鶴商学園。昨年の甲子園出場校。
4日(土)蔵王(古川高G)
5日(日)泉(泉高G) ※もと育英高校の大越投手の兄が監督。
8日(水)仙台東(仙台東高G)
10日(金)~12日(日)ミニ大会(宮崎球場)
18日(土)気仙沼(古川高G) 
19日(日)仙台第一(古川高G)

2012/07/07

亡くなられた田村選手に関して

古川高校野球部佐々木監督より~




「昨年の震災により,七十七銀行女川支店で亡くなった田村君(本校野球部OB)のご家族より応援幕を今週日曜日(8日)に贈呈されることになりました。野球部のグランド内に彼の功績を残してあげようと計画していたところ,このような展開になりました。ブルペン付近か部室脇に彼の名前を残してあげようと計画中です。朝日新聞やKHBにもとりあげられることになると思います。」




*選手にとっては大変心強い贈り物になりそうです。選手諸君、田村選手をはじめ古高OBはいつも遠くから応援しています。古高の伝統と誇りを大切にして安心して戦いなさい。そして新たな歴史を作っていくことを期待します。


地元の皆さん、ニュース等を見逃さないように。









昭和46年夏 古川、堂々と決勝へ

今日は雨で中止のようですが、いよいよ夏の高校野球県予選が開幕です。
例年のことながら、母校の戦いぶりが気になります。
このような過去の歴史がいよいよ蘇ることを祈っております。


昭和46年8月1日 河北新報


「古川、堂々と決勝へ」

2012/06/23

宮城大会 組み合わせ

河北新報コルネット


古川高校今年の緒戦は、二回戦 対松島高校戦 7月9日 10時 @名取市民球場!






2012/05/31

是非地元の皆さんのご声援を。

私のブログのモットーはその年の現役選手個人個人にこだわることではない。
漠然と、外野から「古川高校野球部」を応援しているだけである。が、
それでも選手には地元に愛されるチームを目指して欲しいと思う。
ちばあきおの漫画「プレイボール」でもある、「墨高がんばれよ〜!」、あの感じである。

それと一言、
選手諸君、君らは結構いろんな人に見られている。
古高の野球部員ならば、常に紳士たれ

2012/05/17

さらば南校舎

古高の南校舎が取り壊しになる(なった?)らしい。
あの古い古高の象徴の建物である。私は「南校舎」と聞いてどこのことかすぐにピンと来なかったが、何の事は無い、授業を受けたまさにあの校舎である。

野球部にとっては、雨の日と冬は校舎の廊下が主たる練習場になった。邪魔に思った生徒も多かった事だろう。とにかく走った。

その送別会で上映されたビデオが見れるページを発見↓
http://www.youtube.com/watch?v=GIzemGCDqoI

私にとって、この校舎はいつも「薄暗い」印象があった。快晴の日も薄暗かった。それは、当時教職員も含めほぼ男ばかりがこの狭い校舎に集っていたということもあるだろうが、十代の多感な時期に感じた一抹の不安感を反映した色合いと言っていいのだと思う。漠然とした将来への不安である。何かになれそうな気がする。しかしその何かが分からない。その言いようの無い不安をただがむしゃらにぶつけられる時間、それがユニフォームを着ている時間帯だった。その不安は誰もが経験するものではあるだろうが、その時期を野球に賭けたという思いが私は強い。この古い校舎を見るたびに、私はその時感じた不安感を思いだすのであった。

2012/02/19

高校時代の相沢投手のフォーム




今年の古高野球部はなんかやりそうな予感。。。

私は授業にまじめに出席して怒られた経験が生涯に一度だけある。
古高が秋季県大会で仙台育英を破りベスト4に進出した日の翌日、つまり東北大会出場をかけた準決勝の対東陵高校戦当日、宮城球場まで応援に行かずに授業に出て、英語の時間に鬼の松井先生に怒られたのである。いわく、
「古高が東北・仙台育英を倒して甲子園を狙えるチャンスは10年に一度周期である。そんな絶好のチャンス到来のこの日、まして正月の3日くらいしか休まず一緒に厳しい練習をしてきた後輩の応援に行かずにのこのこ古高に来るとは何ごとか。」

2012/01/30

訃報

本校野球部のOBで、県予選ベスト8まで進んだ平成15年の捕手をつとめていた
田村選手が、このたびの大震災で帰らぬ人となったと関係筋から情報提供された。

田村選手は七十七銀行の女川支店に配属されていたが、このたびの震災で津波の被害にあったという。
女川支店の行員は15名中13名が亡くなる大惨事であったようである。

http://ja.wikipedia.org/wiki/七十七銀行

田村選手のご遺体は半年後に発見され、古川高校、野球部グラウンドを巡ってから荼毘に付されたとのこと。

ここに、謹んで同志である田村選手のご冥福をお祈り申し上げるとともに、家族、関係各位へ心よりお悔やみ申し上げます。

大変残念です。


管理人


追記 奇しくも、このページタイトル画像、左上隅キャッチャーマスクが田村選手である。ここで後輩の甲子園出場まで見守ってもらおうと思います。

2012/01/28

被災地から石巻工業、悲願の甲子園初出場

まずは石巻工業高校の甲子園初出場を心より祝福します。


石巻工業は郡部では伝統的に非常に野球の強い学校でしたが、甲子園にはもう一つというところで敗退していました。


昭和44年 ベスト8
昭和57年 ベスト8
昭和58年 ベスト8
昭和59年 ベスト4
昭和60年 ベスト8
昭和62年 ベスト8
平成15年 ベスト8
平成17年 準優勝

昭和61年も4回戦で惜しくも敗退しているので、昭和57年から昭和62年にかけて、5,6年間ほぼ毎年ベスト8以上に食い込んでいたという強豪です。石巻勢では、昭和23年夏の石巻高校に続いての出場。

それにしても昨夏の古川工に引き続き石巻工の選抜出場、県下工業高校勢の活躍目を瞠るものがあります。