野球部神宮大会出場の回想 元本校職員(監督)高橋 養
秋の東北大会準決勝で古高は九回の表迄2対1で宮古をリードしていたが、その裏三塁手が正面の猛ゴロを大トンネルエラーして逆転された。宮古が東北大会で優勝、37年の春の選抜大会に東北代表として甲子園に出場した。同年3月、本校野球部は学生野球結成記念神宮大会に推薦されたのである。上京出場に係わる諸経費その他の協賛のバックアップ態勢が、同窓会その他を中心に確立した。
出発当日、応援団を先頭に校門から選手団一行は南町、三日町、七日町、台町通りの街頭行進、そして駅のホーム迄歓迎見送りをうけ乍ら列車に乗り込んだ。
選手たちは上野から出迎えの車で宿舎へ、渋谷のホテルに着いて車の扉が開かれた途端ー、バタッー、バタッー、又一人バタッー、バタッー、バタッーと、選手一人一人が地面に飛び込むかのように倒れ、青息吐息、喘ぎ喘ぎ苦悶した。保冷庫に詰込まれていたのだ。
神宮大会も、試合当日も、翌日も、日本中のどの新聞にも、一行もこの大会について何も掲載なし。この大会は一体ー、なんだ?主催者は誰だー。このバカヤロー。
この時の古高野球部精神。
選手は腰を落し、打球を身体の真前で処理、一塁手の胸を目掛けてボールをビューんと抛る。打席では好球必打、狙いダマを決めバットの芯でボールを鋭く捉える。ツー・ストライク後はファウルで粘りにネバリ、必ず出塁する。
然し、他面一方、緊張するなら緊張せよ、あがりたいなら天迄あがれ、震えるならガタガタ顎が外れる位震えろ、トンネルするなら大トンネルやれ、エラーするなら大いにエラーせよ、暴投するなら大暴投せよ。すべて迷わず思い切り存分にやれ、結果の勝負などモンダイじゃない。
応援が来ていようが、誰が見ていようが、見ていまいが、味方がいようが敵がいようが、何様がきていようが一切モンダイジャナイ、やるのは俺だ。アメリカであろうが、東京であろうが仙台であろうが場所はどこであろうとモンダイじゃない。
時間の都合でシートノックは中止、古高監督の高養のスバラシイノックを大東京のバカヤロめらに思い切り見せてやりたかった、残念無念。
神宮球場とは名ばかり、第二球場である、野外の処ドコロに杉の巨木が生え、曇りの天気だから、尚更暗い雰囲気、こんな球場とは一体なんだ。主催者の大バカヤロー。
相手校は静岡商業、古高は2点先取下が、コールドゲームで敗れた。
神宮大会は、それは最初から、途中も、そして終り迄、矢張り唯の神宮大会にしかすぎなかった。私の胸中には一面シラケがズート併行して走っていた。心にも体にもチームの態勢にも、神宮大会など古高百年史に位置づける程の何ものでもないと思っていることに変わりない。神宮大会など何でもない。
唯、この大会への出場に関連して、特に後の県議会議長佐藤常之助先生、祇園寺信彦東北大教授、当時の古高同窓会長佐藤宗樹先生、又古高野球部O・Bで学習院大生の三浦優さん、なんといっても多くの在京古高同窓会の皆々様、外多くの方々から、物心両面に亘って多大の御好意援助を頂戴しました。厚く厚く感謝申し上げております。そして当時の県高野連会長小圷洋先生(元古川高校長)の御遺訓に対しまして心より深甚の意を表する次第です。
神宮大会出場(昭和三十七年三月)時代の野球部 昭和三十八年卒 野球部 宮本文寿
古高野球部が全国大会に出場することに成ったのは、昭和三十六年の秋季大会で地区大会に勝ち、県大会第三位になり、東北大会で準決勝まで快進撃した事に因るものでした。
〇県大会 第一回戦 古高 5-2 宮工高
第二回戦 古高 6-2 佐沼高
準決勝 古高 1-8 東北高
第三位決定戦 古高 4-3 仙台一高
県第三位でどうして東北大会出場か?それは東北大会が宮城県開催ということで(当時開催県のみ3チーム出場権があったため)、古高野球部は準決勝で、力が五分の東北高戦は捨てて力を貯え、第三位代表狙いで、決定戦仙台一高に勝って、見事、東北高・仙台二高と共に出場権を得ることが出来た訳です。
〇東北大会
第一回戦 古高 2-1 磐城高校(福島県代表)
準決勝 古高 2-3 宮古高校(岩手県代表)延長十二回
又、東北大会準決勝進出でどうして全国大会出場なのか?ということですが、優勝高と準決での善戦もさることながら、それより今考えるにその当時の古高野球部には、「運」「球運」が有ったということだと思います。当時の神宮大会出場権は、秋季東北大会で選抜甲子園に出場出来ない準決勝校が、選抜される事になっていたのです。(現在の神宮大会は十一月で優勝校のみ出場)それでも、準優勝校は東北高校であるのに、なぜ神宮大会に選抜されたか?それは、準優勝の東北高校が突然辞退したからで、古高野球部には球運が廻ってきたと今から三十五年前を思い出しております。
そして、その神宮大会はどうであったかと云うことですが、第一回戦、静岡商業と対戦し第一日目1イニング目0-0で終了した処で雨天のため次の日に延期になり、二ー十で敗退でした。前半は互角で一時は2対1とリードしての試合でしたが、三月後半の東北代表としては、その当時は冬の寒さのハンディにどうすることも出来なかったと言い訳をさせていただきます。その大会出場のために古高の先生方に寄付集めをしていただいたり、出発に際しては陸前古川駅前通りを古高吹奏楽部の先導でパレードさせていただいたり、試合に応援団十五名程が破れ帽子・高下駄・学生服に、てぬぐいぶら下げて神宮まで来てくれて、蛮カラな応援をしてくれたこと、又、帰ってから古高の講堂で戦績報告会を開催していただいたり等々についても、三十五年前とは云え、出場選手たちの脳裏にまだ残っていると思います。
その当時の監督は後輩諸君は知らないかと思いますが、ドイツ語(その当時古高では第二外国語として二・三年時にドイツ語を履修していたのです)と倫理社会の先生の高橋養先生でした。綽名は「ドイチェ」、古高の監督になるまで野球は、ずぶの素人、唯、野球に対する情熱と選手に対する気配りは、やはり全国大会の監督以上で、精神野球そのもののすばらしい先生でした。
当時の野球部の連中は皆経験していることですが、夏休みの炎天下での連日の全員百本ノック、その当時は水を飲まない休憩なしがよいとされる時代で、朝九時から三時半まで昼休みなしの大変な練習で、早く夏休みが終わればよいと思って皆過ごしてました。雨上がりの練習中、水を飲みたいがために転んだふりして水溜りの汚い水を飲んだ部員が少なからずいたようです。その様な練習に、選手が来る前から「ドイチェ」先生はグランドで待っておられ、練習が終わるまで毎日付きあってくれる監督でした。因みに、グランドは現在の校舎の北東部で陸上部・ハンドボール部・バレー部と兼用でした。冬の練習はランニングが主体で、敷玉橋・志田橋までよく吹雪の中も、眉を凍らせ、顔に雪を積もらせながら走ったものでした。
その様な練習をして県大会に宮城球場・評定河原へと出て行く訳ですが、ドイチェ先生の試合前のノックは、有名でありまして外野ノックでも時々、ピッチャーマウンドまでしか届かない、そうすると「突っ込め!」の声が出る、選手も慣れたもので必死で突っ込む、又キャッチャーフライが上がらない事がしばしばで、了いには先生が手で上げてノックを終了する、すると観客から拍手が起こる。その様な状態でしたが、しかし、選手達はそのためにリラックスして試合に臨んでいたようです。そして、ドイチェ先生が高校野球界では最後になると思われるポーズサイン(ブロックサインでないサイン)を使っておられ、これも敵にとっては、だれがサインを出しているか分からない、判断のし難いものだった様で大変効果的だったようです。
その当時の監督は後輩諸君は知らないかと思いますが、ドイツ語(その当時古高では第二外国語として二・三年時にドイツ語を履修していたのです)と倫理社会の先生の高橋養先生でした。綽名は「ドイチェ」、古高の監督になるまで野球は、ずぶの素人、唯、野球に対する情熱と選手に対する気配りは、やはり全国大会の監督以上で、精神野球そのもののすばらしい先生でした。
当時の野球部の連中は皆経験していることですが、夏休みの炎天下での連日の全員百本ノック、その当時は水を飲まない休憩なしがよいとされる時代で、朝九時から三時半まで昼休みなしの大変な練習で、早く夏休みが終わればよいと思って皆過ごしてました。雨上がりの練習中、水を飲みたいがために転んだふりして水溜りの汚い水を飲んだ部員が少なからずいたようです。その様な練習に、選手が来る前から「ドイチェ」先生はグランドで待っておられ、練習が終わるまで毎日付きあってくれる監督でした。因みに、グランドは現在の校舎の北東部で陸上部・ハンドボール部・バレー部と兼用でした。冬の練習はランニングが主体で、敷玉橋・志田橋までよく吹雪の中も、眉を凍らせ、顔に雪を積もらせながら走ったものでした。
その様な練習をして県大会に宮城球場・評定河原へと出て行く訳ですが、ドイチェ先生の試合前のノックは、有名でありまして外野ノックでも時々、ピッチャーマウンドまでしか届かない、そうすると「突っ込め!」の声が出る、選手も慣れたもので必死で突っ込む、又キャッチャーフライが上がらない事がしばしばで、了いには先生が手で上げてノックを終了する、すると観客から拍手が起こる。その様な状態でしたが、しかし、選手達はそのためにリラックスして試合に臨んでいたようです。そして、ドイチェ先生が高校野球界では最後になると思われるポーズサイン(ブロックサインでないサイン)を使っておられ、これも敵にとっては、だれがサインを出しているか分からない、判断のし難いものだった様で大変効果的だったようです。
No comments:
Post a Comment