「おうおう、黙って聞いてりゃ寝ぼけた事を抜かしやがって この悪党ども! あの晩咲いたお目付け桜、夜桜を、まさかお前ら!見忘れたとは、言わせねえぞ!!」
ババーン
テレビドラマ「遠山の金さん」で、江戸町奉行であった金四郎遠山景元が、罪を認めぬ悪人らに対して、右腕に彫られた桜吹雪の入れ墨を見せつけるおなじみの名シーンだが、この遠山景元の入れ墨ははたして、実話に基づくものなのかそれとも昭和期に創作された虚構なのであろうか?
遠山景元に桜吹雪の彫り物が本当に有ったかどうかの確証は無く、諸説あるようだが、後世、講談、歌舞伎に始まり、「遠山の金さん」の舞台、ドラマ制作などにおいて、作り手側が参考にしたと思われる書物が幾つかある。その一つが、明治26年に博文館から発行された、角田音吉 著『水野越前守』で、これは「『黄梁一夢』に左腕に花紋を黥する(左腕に花紋の入れ墨をしていた)と書いてある」と、引用しているかたちになっている。『黄梁一夢』は木村喜毅(芥舟)による漢文体の書籍、明治16年刊。
角田音吉『水野越前守』
この『水野越前守』の著者の角田音吉氏は、明治44年より約7年にわたり、宮城縣立古川中学校で教鞭を取っている人物である。「音吉」という名は当時はさして珍しい訳ではなくごく一般的であったため、同姓同名の別人の可能性が無いわけでもないのだが、念入りに裏を取った結果、同一人物であると思わざるを得ない。
職員録(明治44年) 角田音吉氏の他、糟谷校長、星合教諭、鈴木譲教諭の名前がある
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東京都江戸東京博物館に寄せられた質問と回答
https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000098970&page=ref_view
質問 遠山金四郎(遠山景元)は本当に桜吹雪の刺青をしていたのか。
回答 所蔵の参考資料によると、「桜吹雪の刺青」の有無について確証のある文献は当館蔵書には見つけられませんでした。また、刺青の図柄については美女の生首、花紋など諸説あります。詳しくは下部「回答プロセス」「参考資料」をご参照ください。
回答プロセス【資料1】『NHK歴史発見 8』(NHK歴史発見取材班編 角川書店 1993年 2100/463/008 p.92-94)
元幕臣中根香亭『帰雲子伝』(明治26年)によれば「遠山は二の腕から肩にかけて彫物をしており、その図柄は、髪を振り乱して口に文をくわえた美人の生首だった」としている。「しかし彫物を禁止するよう水野忠邦に進言していた遠山本人が彫物をしていたとは考えられない。実際に二の腕に彫物をしていた町奉行、根岸鎮衛(しずもり、やすもり)のことが、遠山のこととして語られるようになったと思われる」と、疑問を呈している。
【資料2】『遠山金四郎の時代』(藤田覚著 校倉書房 1992年 2105/672/92 p.12-23)
明治26年発行の雑誌『史海』第26号に中根香亭が執筆した『帰雲子伝』に遠山が「断頭の美人髪を乱して箋を啣む」彫り物をしていたと描き、同年に出版された角田音吉著『水野越前守』(東京文館蔵版)では「左腕に花紋を黥する」と描写している。著者は「ほんとうに彫り物があったのかどうかは確認しようがない」とし、ただし、天保年間には刺青禁止令が出るほど流行していたこと、遠山より約30年も前の町奉行根岸鎮衛が彫り物をしていたという噂が、遠山の話と関係していることはありうる話としている。(以下略)
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*角田音吉に対するウィキペディア等の記述がないため、しらみつぶしに明治後期から昭和初期にかけての官報や職員録などを調べていった。その結果、彼が星合氏や鈴木氏と同様に、古川中学の教員を辞した後、台湾総督府職員になり、台南師範学校に渡ったことを突き止め、調査をすすめていたところ、貴重な履歴書を見つけた。
國史館臺灣文獻館 HP
https://onlinearchives.th.gov.tw/index.php?act=Archive/search//eyJzZWFyY2giOlt7ImZpZWxkIjoidm5hbWUiLCJ2YWx1ZSI6Ilx1NjYyZFx1NTQ4Y1x1NTE0M1x1NWU3NFx1ODFmYVx1NzA2M1x1N2UzZFx1Nzc2M1x1NWU5Y1x1NTE2Y1x1NjU4N1x1OTg1ZVx1N2U4Mlx1NmMzOFx1NGU0NVx1NGZkZFx1NWI1OFx1OTAzMlx1OTAwMChcdTlhZDgpXHU3YjJjXHU0ZTAwXHU1Mzc3XHU0ZTU5XHU3OWQ4XHU2NmY4IiwiYXR0ciI6IisifV19
この履歴書は決定的な意味を持ちそうである。それによれば、生まれは安政六年(1859年、江戸時代の末期)、東京生まれ、明治42年、宮城縣立白石中学の教諭となり、明治44(1911年)から古川中学に移った。
それまでの経歴は、明治34年東京都恩方村小学校校長とあり、鈴木譲三郎氏同様に、はじめは小學教育に従事し、同38年になって、師範学校、中学校における免許を取得した(46歳)ことが判明した(国語、漢文)。古川中学に赴任したのは、角田氏が実に52歳の時で、それからほぼ還暦までを古中で過ごしたようである。
問題は、では、ここに記載されていない彼の二十代から三十代は何をしていたのか?
角田音吉 履歴書
角田音吉氏の名が、早稲田大学の同窓名簿に確認できる。それによると、明治21年、早稲田大学の前身、東京専門学校の英語本科を卒業している。戸籍も東京で合致する。これは彼が29歳のときであるが、東京専門学校が出来たのは明治15年。ほとんど開校間もない時期の入学であったと思われ、集まる学生の年齢もてんでばらばらだったであろうと思われる。
早稲田大学校友会名簿(漢数字は明治の卒業年、算用数字は大正の卒業年度を示す)
『水野越前守』の奥付を見ると、著者の角田音吉氏の名前や略歴がなく、発行者は当時の社長名義になっている。これは、作者が博文館の社員である場合などによくあるパターンであって、会社の方針としてこのシリーズものの出版をすることになり、担当者が社員の角田氏であった可能性が高いことを示していると思われる。これを支持する他の理由として、角田音吉氏は同年、博文館から水野忠邦とは何の関係もないと思われる『簡易園芸法』も出版しておりこちらも奥付に著者の名前がない。
当時博文館は、優秀な若手執筆者を大量に雇用し、「叢書もの」で若手に評伝を書かせるなどして会社を大きくしていく経営方針であったらしく、角田氏はその一翼を担い著述業出版業に携わっていたものと思われる。
『水野越前守』の奥付 大橋新太郎氏は当時の博文館社長
『水野越前守』が博文館から発行されたのは明治26年。 明治20年代(1887年〜1896年)は、遠山景元(1793〜1855)が活躍した幕末から約30〜40年後であり、この時期に「遠山の金さん」は主に歌舞伎の演目として人気が再燃した。 『水野越前守』と同年に出版された『帰雲子伝』(中根香亭 明治26年)では「髪を振り乱して口に文をくわえた美人の生首」の彫り物であったという説を採っていることを考慮すると、この明治26年の2つの関連本が契機となって遠山元影の彫り物問題が再度巷で評判となり、「花紋」と記した角田音吉氏の著述の方が「生首」よりも世間受けして、その後それが転じて桜吹雪につながって行ったというシナリオは安易に予想がつく。あくまで予想の域を出ないことは強調しておかねばならないが、実際、作家の永井荷風も彼の著作の中で数度、角田音吉氏の『水野越前守』を引用しているのが確認される。
明治期においては教員養成制度の未整備と教育需要の急増により、著述家・官吏・旧士族など他職から教職へ転ずることは一般的であった。明治政府は、全国に中学校を急激に乱立したため、圧倒的に教員の数が不足したのである。その点からも、出版社における著述業から教職に転じた角田氏のキャリアは合点がいく。星合氏も鈴木氏も、本土キャリアの延長として、晩年は台湾での植民地教育に従事した。それが一般的な教員のキャリアコースであったと思われ、大正10年に角田氏も62歳で渡台した。
5年後の大正15年、角田氏は家庭の事情を理由に台湾総督府を辞職、その自筆の辞職届が残っている。齢67の高齢であったが、当時は教員の不足もあり定年の規定が厳格ではなく、教育者としても人格者としても一流の人間が要請がある限り長く務めることが普通であったようである。
自筆の台南市範学校退職願
まとめると、
角田音吉氏は江戸末期の安政6年に東京で生を受け、早稲田大学の前身の東京専門学校で教育を受けた後、東京博文館において著述活動を行い、明治26年に『水野越前守』、『簡易園芸法』を刊行した。遠山景元に関する刺青の伝承は、江戸期の同時代史料には見られず、幕末から明治初期にかけて講談・実録物の中で形成されたと考えられる。明治中期の評伝における「花紋」記述は、その伝承が既に定着していたことを示す重要な初期文献の一つであり、この「花紋」の記述が後々「桜吹雪」に転化して行ったものと思われる。この遠山景元の逸話が定着したのは明治20年代と言われており、角田音吉の著作がその契機になった可能性は十分ある。
角田氏はその後教職に転じ、宮城県古川中学教諭を経るなどして、キャリア晩年に台湾総督府台南師範学校に赴任して台湾の教員養成に貢献した。大正15年に帰国後は、宮城縣加美農業高校の教諭として慣れ親しんだ宮城に戻っている。彼が古川中学に勤務した時代は、糟谷氏、星合氏、鈴木氏、など錚々たる才能が教員室に揃っている時代だった。
角田音吉氏 略歴
1859安政6年 東京生まれ
1888明治21年 東京専門学校(早稲田大学)英語本科 卒業 29歳
1893明治26年 『水野越前守』『簡易園芸法』出版 (ともに博文館)34歳
1905明治38年 中学校教員検定試験 合格 46歳
1907明治40年 群馬師範学校 教諭
1908明治41年 山梨懸立甲府中學 教諭
1910明治43年 宮城縣立白石中學 教諭
1911明治44年 宮城縣立古川中學 教諭 52歳
1920大正9年
石川県立七尾商業 教諭
1921大正10年5月 台湾総督府台南師範学校 教諭 62歳
1926大正15年3月 辞職 従七位 叙勲 67歳
1926大正15年 宮城縣立加美農業 教諭
1932昭和7年 『漢詩作法』、『支那女流詩講』出版(東京立命館出版)73歳
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