*(2より続く)
ここで前回重要なご指摘をいただいている点に注目する。
「坪内逍遥が「中学修身訓」
坪内逍遥(1859-1935)
坪内逍遥といえば、日本の近代文学に貢献した偉大な巨星で、小説家、評論家、教育者、劇作家、シェークスピア全集の翻訳家、など幅広い業績で知られる。特に、東京帝大時代の同期、高田早苗とともに、早稲田大学の前身の東京専門学校の講師、早稲田大学に名称変更してからの教授として同大学の発展に多大の貢献があり、現在早稲田大学の敷地内には、早稲田大学坪内博士記念演劇博物館があり、坪内博士の数々の遺品、コレクションも展示されている。
その坪内逍遥と森慎一郎氏が共著で「新訂 中学修身訓」を出版したのが明治44年11月。坪内逍遥は、本名の「坪内雄蔵」名義で著している。巻頭の緒言によれば、第4,5巻を新たに森氏が執筆担当したとなっている。
新訂 中学修身訓 坪内逍遥 森慎一郎 共著
問題は、著名なる坪内逍遥と、森慎一郎氏がなぜ共同執筆するに至ったのかということだが、このことについて関連があると思われる興味深い記述が「古中古高百年史」にある。
坪内逍遥の甥で、若き新進の文学者として将来を嘱望されていた坪内鋭雄(としお)が、宮城県第三中学校として独立したばかりの現古川高校に教師として赴任したのである。坪内鋭雄氏は、東京専門学校(早稲田大学)の文学部を首席で卒業したばかりで、才能にも恵まれており、文学で身を立てる決心でいたが、どういう理由からか、東北の古川へ新任の教師として赴任することに至ったのである。
鋭雄氏が赴任したのは明治34年春、古高が県第三中学として独立してすぐのことで、32年に古高を去っている森慎一郎氏とは入れ違いになったが、この甥の赴任が契機となって、逍遥博士が森氏と懇意になった可能性も大いにあるではないか。もちろん逆の場合もある。つまり、既知の森氏の紹介で、甥の鋭雄氏に古川での教師生活を勧めた可能性である。
古中古高百年史より
職員録 明治35年より
宮城県第三中学校の嘱託教員として、坪内鋭雄の名が確認できる
ではなぜ、新進気鋭の文学士である坪内逍遥の甥、坪内鋭雄が、東北宮城の辺鄙な田舎教師として赴任するに至ったのだろうか?
彼は「当世教師生活」という著書の中で、この決断に至ったと思われる心境の推移を事細かく記載している。これが創作上のフィクションかどうかはまず置いておいて、その部分を抜粋してみよう。
坪内鋭雄「当世教師生活」
この小説の出だしでは、語り手(鋭雄)が「ナポレオンが何者ぞ、成吉思汗(チンギスハン)が何者ぞ、この小さな島国の宰相くらいは自分は難なく務めてみせる云々」と気焔を吐いているところから始まる。大学を首席で卒業することになった主人公は自信と希望に溢れ、大いなる立身出世を夢みて矢継ぎ早にその将来像を論じている。その夢の最たるものは日本の大詩人になることである。ただ、気焔を吐くだけで実際の職はまだ無く、卒業後早くも二か月が経とうとしていた。そんな折、実父より手紙が届く。
「かくする程に身に降りかかった一大事出来しぬ、それは國許の父より手紙到来して其許にも既に学校を卒業して天晴一人立ちの紳士として社会の為に御働なされ候はんこと蔭ながら欣賀に耐えず、就いては従来送付いたし居りし学資は、他にも少々都合あれば、本月限にて暫く相止むるにより成るべく御勘考の上奮励一番、自活自営の途を講じ他日錦を飾って帰省せらるるの日を只管相待つ次第、尤も不時に差し迫りたる金子の必要あらば、特にご申越されたく其の節は何とか工夫致すべしとの主旨なり、」
つまりこれまで鋭雄に送付していた仕送りを卒業を機に停止するという通知だった。
(坪内鋭雄(其の2)に続く)














































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