*現役の3年生は当分思い出したくも見たくもないかもしれないが、将来見たくなったらここに戻ってくるがいい。今は、下級生の為にアップしておく。1,2年生はこの悔しさをどうか忘れないで欲しい。創部以来、100年以上も”普通の努力”をして、古高にはここまで甲子園は遠い。大崎地方という片田舎の、ただ野球が好きという地元の少年だけが集って、秋は県準優勝、東北大会では準決勝まで勝ち進んだ今年の3年生。それでも甲子園は振り向かなかった。
今日の試合は、負けるべくして負けた試合と云える。すべての歯車がなにか噛み合わなかった。5失策は古高の脆い部分が一気に噴き出したようなものだった。あり得ないことが起きてしまうのが最後の大会のプレッシャーである。そしていったんその負のスパイラルに陥るや、抜け出す困難さを知っている野球経験者が大半だろうと思う。ボクシングでたとえれば、5,6回ダウンしたようなものだった。その都度立ち上がったのは立派だが、試合内容は完敗であった。
練習は嘘をつかない、これは真実である。そして、練習した通りの実力が出る。負けたら、残念だが練習が足りなかったと思えばいい。時間的な問題ではなく、正しい練習かどうか。ただだらだら長く練習したとしても、ここ一番で力を発揮できる練習でなければ意味は無い。
私は、今年のチームを見て、気合の上では満点、ただ、その気合が気負いに変化してしまっているのではないかと思うことが多々あった。そこまで高校生に求めるのは酷というものだが、古高には甲子園行って欲しいので敢えて書いておく。負けた、はい今日から練習、それでも100年も勝てないのだ。
たとえば、振りを鋭くするのはいいが、構えた時から全力が入ってしまっているのではないか。ただ、気合だけでは余計な力が入ってしまうのではないかと思うのである。打とう打とうとして、引っ張りに入っているのではないか。構えた時に、力が入りすぎていると、むしろスイングスピードを上げることはできない。スタンスの幅、上体がかがみすぎていないか。
たとえば、振りを鋭くするのはいいが、構えた時から全力が入ってしまっているのではないか。ただ、気合だけでは余計な力が入ってしまうのではないかと思うのである。打とう打とうとして、引っ張りに入っているのではないか。構えた時に、力が入りすぎていると、むしろスイングスピードを上げることはできない。スタンスの幅、上体がかがみすぎていないか。
武術で「居合(いあい)」というものがある。斬りかかって来た相手を、鞘に納めた刀を瞬時に抜いて撃退する技、言ってみれば護身術で、瞬時に刀を抜くために最も重要なのは完全脱力の姿勢である。剣を抜く瞬間だけ最大の速度と力を発揮するのである。はなからガチガチに構えていたのでは、咄嗟に剣は抜けない。これはバッティングに通じる極意であろう。
そのような居合の極意を打撃に取り入れていたような打者は、断然、3度三冠王の落合博満だと思う。彼はなぜリラックスして脱力で立っているのか。そして、あたかも軽くバットを出したように見えて、いとも簡単にホームランを打てるのはなぜか。
落合は、余計な力は一切抜いて、当たる瞬間に刀で斬るような切れ味でバットを出している。打撃は実は攻撃ではなくて、「攻撃してくるのは投手だけ、打撃は迎撃、守りである」とはっきり言っていることからも、彼が居合を意識していたことがうかがえる。余計な力、無駄な力が一切入ってないので、トップから最短距離でバットを出す。似たような感じは王貞治で、彼が真剣で練習していたこと、さらに合気道の鍛錬によってタイミングを掴んだことはつとに有名だ。軽く打ってる感じに見えるというのは、居合のような究極の奥義に達している証拠で、実際は全力で振っているが、インパクトまで無駄な力が一切ないのでそのように見えるのである。
私も最後の試合で負けて涙を流した先輩たちを見て育った。自分らの最後も負けてしまった。後輩たちも。その後輩も。
いつか古高は県優勝という栄冠を勝ち得て甲子園に行くだろうか。それとも、さらに100年無理なのだろうか。
野球の面白みは団体競技で、9人の団結で勝利を勝ち得ることである。チームワークで勝つことである。その点では、榴ケ岡の団結力は見本にすべきものだった。試合前のギャグも、彼らはリラックスが一番いい結果が出ると知っているのではないか。
声出しや、気負いがいい結果に結びつくことはあまり無いように思う。自分を高めていくことは必要だが、ものをいうのは結局技術に裏打ちされた確固たる自信だ。勝利の女神は、脆さは持っているが勝たなければならぬという悲壮感にはむしろ冷たい一面がある。
試合は楽しむというと語弊があるが、力を最大限発揮できるような精神状態で戦うべきだ。かつての箕島高校の「尾藤スマイル」も、鬼の尾藤公監督がたどり着いた一つの結論であった。
さて、勝利の女神はいつか古高に微笑むか?
人間が成長できるのは、実は負けた時が一番である。負けをただ放置しておくだけでは成長はない。負けの理由を知らなければならない。理由はあるはずだ。
せっかく盛り上がった機運、3年生が見せてくれた甲子園への夢を、下級生は逃さないで欲しい。ここまで古高野球部が応援も含めて一体になったことはかつてなかった。この経験を生かすのか、そうでないのか。
わたしは、古高の甲子園は近いと思う。ただし、負けを徹底的に分析した練習を続けていった場合は、という条件が付く。ひとまず本気になることだ。やっぱり努力してもダメか、ではなく、本気になること。本気になりさえすれば、高校生なら短期間でいくらでもうまくなれる。野球を良く知れば断然差がつく。
現在の茂泉監督は大変優秀な監督である。就任一年目でここまで来た。その前は佐沼を準優勝に導いた。
期待しよう。
落合は、余計な力は一切抜いて、当たる瞬間に刀で斬るような切れ味でバットを出している。打撃は実は攻撃ではなくて、「攻撃してくるのは投手だけ、打撃は迎撃、守りである」とはっきり言っていることからも、彼が居合を意識していたことがうかがえる。余計な力、無駄な力が一切入ってないので、トップから最短距離でバットを出す。似たような感じは王貞治で、彼が真剣で練習していたこと、さらに合気道の鍛錬によってタイミングを掴んだことはつとに有名だ。軽く打ってる感じに見えるというのは、居合のような究極の奥義に達している証拠で、実際は全力で振っているが、インパクトまで無駄な力が一切ないのでそのように見えるのである。
私も最後の試合で負けて涙を流した先輩たちを見て育った。自分らの最後も負けてしまった。後輩たちも。その後輩も。
いつか古高は県優勝という栄冠を勝ち得て甲子園に行くだろうか。それとも、さらに100年無理なのだろうか。
野球の面白みは団体競技で、9人の団結で勝利を勝ち得ることである。チームワークで勝つことである。その点では、榴ケ岡の団結力は見本にすべきものだった。試合前のギャグも、彼らはリラックスが一番いい結果が出ると知っているのではないか。
声出しや、気負いがいい結果に結びつくことはあまり無いように思う。自分を高めていくことは必要だが、ものをいうのは結局技術に裏打ちされた確固たる自信だ。勝利の女神は、脆さは持っているが勝たなければならぬという悲壮感にはむしろ冷たい一面がある。
試合は楽しむというと語弊があるが、力を最大限発揮できるような精神状態で戦うべきだ。かつての箕島高校の「尾藤スマイル」も、鬼の尾藤公監督がたどり着いた一つの結論であった。
さて、勝利の女神はいつか古高に微笑むか?
人間が成長できるのは、実は負けた時が一番である。負けをただ放置しておくだけでは成長はない。負けの理由を知らなければならない。理由はあるはずだ。
せっかく盛り上がった機運、3年生が見せてくれた甲子園への夢を、下級生は逃さないで欲しい。ここまで古高野球部が応援も含めて一体になったことはかつてなかった。この経験を生かすのか、そうでないのか。
わたしは、古高の甲子園は近いと思う。ただし、負けを徹底的に分析した練習を続けていった場合は、という条件が付く。ひとまず本気になることだ。やっぱり努力してもダメか、ではなく、本気になること。本気になりさえすれば、高校生なら短期間でいくらでもうまくなれる。野球を良く知れば断然差がつく。
現在の茂泉監督は大変優秀な監督である。就任一年目でここまで来た。その前は佐沼を準優勝に導いた。
期待しよう。
古川・千坂の高校野球終わる「魂は後輩に」/宮城 (日刊スポーツ)
<高校野球宮城大会:東北学院榴ケ岡7-2古川>◇24日◇4回戦◇石巻市民球場
No comments:
Post a Comment