目の前にあった高台 助かるはずだった我が子の命 亡き息子との約束を胸に 駆け抜けた12年
「助けられたはずだよね、助かるはずだったんだよねって」 津波に流され、亡くなった我が子。 「普通の行動が取れなかったのは何だったんだ?ということですよ」 なぜ、息子は命を失ったのか?伝え続ける夫婦がいます。
「初めての子ども。すべてが愛おしい」
宮城県大崎市に住む、田村孝行さん(62)と、妻・弘美さん(60)。 12年前、東日本大震災の津波で、長男の健太さん(当時25歳)を亡くしました。 (弘美さん)「初めての子どもでしたし、そのすべてがなんて愛おしいんでしょうって。そんな感じで見守っていたかなって」 小学生の頃から野球に打ち込んだ健太さん。宮城県内の高校を卒業後、東京の大学へ進学。地元・宮城の七十七銀行に就職しました。 (弘美さん)「『地元の企業も受けてほしいんだ』って言ったところ、息子もそう思ってくれて、親孝行のつもりで選んだ会社だったんだと思います」 「これまでの努力が報われて、これからどう成長していくのかなっていうのが、親として凄く楽しみでした」
避難場所だった高台は目の前に なのに津波に流された
2011年3月11日、東日本大震災。 入り組んだリアス式海岸からなる宮城県・女川町は、津波で壊滅的な被害を受けました。 当時、健太さんが勤務していた七十七銀行女川支店は、海岸から100メートルほどの場所にありました。 発生時刻の午後2時46分から約30分後、健太さんら13人の従業員やスタッフは、高さ10メートルの2階建ての支店の屋上に避難しました。 ところが、押し寄せた津波の高さは、屋上の2倍近くの約20メートル。健太さんらは津波にのみ込まれ、12人が犠牲になりました。(4人死亡・8人行方不明) 町の指定避難場所だった堀切山(ほりきりやま)の高台は、銀行から歩いて3分、走れば1分でたどり着く場所でした。約600人がこの場所に避難し、助かっていたのです。 (弘美さん)「このあたりです。このあたり、銀行があった場所は。目の前でしょ」 なぜ、目の前にあった高台に逃げられなかったのか。 (孝行さん)「支店長は書類の格納、ドアを全部閉めなさい、屋上に行って海の様子を見なさい…屋上にとどまるという指示をだしたわけです」 奇跡的に生き残った同僚によると、健太さんは「時間があるから高台に行こう」と話していたことがわかりました。 (孝行さん)「上司の命令には逆らえないというのが働いてしまって。普通の行動をとっていれば何の問題もないんだけど、その普通の行動がとれなかったのは何だったんだ?ということですよ」 (弘美さん)「助けられたはずだよね。助かるはずだったんだよねって、どうしても思うよね」
「健太はどこだ」流された息子 探し続ける夫婦
健太さんは津波に流され、行方不明になりました。 孝行さんと弘美さんは、毎日のように女川に通い、健太さんを捜し続けました。 (弘美さん)「さまようように…健太はどこだ?健太はどこだ?って捜して、歩いてたね。半年ね」
遺体発見を受け入れられなかった母 「どんな姿でもいいから抱いてあげればよかった」
震災から半年たった2011年9月、銀行から3キロほど離れた女川湾の海上で、健太さんの遺体が見つかりました。 身元の確認のため遺体安置所に向かうと、身につけていたものが並んでいました。 (弘美さん)「『とにかく着ていた物を全て並べますから、それで確認をしてください』っていうことなの。上着と靴がなかっただけで。ネクタイ、ネクタイピンまで。下着もベルトもあって。全部。ワイシャツも。見覚えのあるもの。みんな一目でわかるのよ。わかるんだけど、それで『あっ健太だよね』っていうふうには私はとってもとってもできなかった」
健太さんが初任給で買ったお気に入りのスーツでした。 我が子のものだとわかっても、受け入れられない。 弘美さんは、遺体を直接、目にすることができませんでした。 (弘美さん)「今になって思えば、ほんとに必死になって帰ってきてくれて、私もなんとかしてあげればよかったなって。とにかく、どんな姿でもいいから抱いてあげればよかったって。手、握ってあげればよかったんだよねって。何もしてあげなかった。してあげられなかったというのは、私ほんとに息子には申し訳なかった。申し訳なかったね」
「彼の命を無駄にはしない」 亡き息子との約束
息子は、なぜ命を奪われなくてはならなかったのか。 健太さんの遺体が見つかった後も、2人の中に疑問は残り続けました。 孝行さんは、健太さんのお葬式で手紙を読みます。 『間違いなく助かるはずだった』『招くべくして招いた不祥事です』 胸の中にあった自分たちの思いを伝えたのは、初めてでした。 (孝行さん)「彼の命を無駄にはしないっていうことですよ。これをきちんと活かしてともに歩むと。あなたの命を必ず人に伝えながらも、やはり何かを変えていきたいと、そういう思いなので」 『健太 約束します 父 母』 健太さんの命を無駄にしないと誓った、孝行さんと、弘美さん。 (弘美さん)「私がこの場に立って、みなさんに高台避難の大切さ、津波が来たら高台に逃げるんですよというのを、みなさんにお話ししてね」 震災翌年から、銀行の跡地に立って、あのとき何が起きたかを伝え始めました。 (弘美さん)「知ってほしい。ここでこういうことあったのよって。どうする?って。聞いてくれた人に。ここで、もし仕事していたらね、あなただったらどう行動しましたか?逃げることできたでしょうかね?って」 自宅から車で1時間かかる女川に毎週末通ううち、企業の関係者や大学生らが全国から訪ねてくるようになったのです。
「健太いのちの教室」を立ち上げ 全国から人が訪れる
田村さん夫妻はおととし、一般社団法人「健太いのちの教室」を立ち上げ、健太さんが子どもの頃よく遊んだ宮城県松島町に拠点を構えました。 この日訪れたのは、和歌山県に住む女性2人です。 (弘美さん)「『ここまで来ないだろう』と思って逃げ遅れた方々の犠牲がすごく多いので。だから女川のような場所は高台に行かなければ命は守れないという、そういう地域です。和歌山辺りもそういう地域って多いでしょ?」 (和歌山から訪れた女性)「そうなんです。沿岸部に、消防とか全部山の手に移動して…」 こちらの女性は去年、女川町で孝行さんの話を聞き、友人を誘ってもう一度訪れたといいます。 (和歌山から訪れた女性)「やっぱり現地に来てお話を聞いてもらうというのと、和歌山で私がお話ししてこうだったよっていうのは全く違ったので、これはやっぱり来て、聞いて欲しいと」
語り継ぐ活動は 震災後に生まれた子どもたちにも
語り継ぐ活動は宮城県内にとどまりません。 3月1日、新潟県三条市立月岡小学校。田村さんたちの「いのちの教室」がオンラインで開かれました。 企画したのは、防災担当の霜﨑大知先生(28)。大学4年生(当時22歳)のときに災害ボランティアで宮城を訪れ、田村夫妻と出会いました。 (霜﨑先生)「自分自身もその話を聞けば聞くほど、自分だったらどうすればいいのかなとか、何を準備しないといけないんだろうとか、そういうことを考えるきっかけになったんですが、それを自分だけで終わらせてしまうのは、違うなという思いがありました」 孝行さんと弘美さんは、小学4年生の子どもたち約50人に、語りかけます。 (孝行さん)「みなさんが生まれる1年前に起きた大災害でした。息子の健太は宮城県女川町にある銀行に勤めていました。息子は地震で起きた津波で命を失いました」 (弘美さん)「どんなに寒かっただろう、どんなに辛かっただろう。代われるものなら代わってあげたかった」 (孝行さん)「息子は『時間があるから、あの高台に避難しよう』という言葉を残していました。息子や息子がいた職場の人たちの命は、”守れた命”だと今も強く思っています。自分の命を守れるのは自分しかいません。だからこそ、おかしいと思ったら自分の意見をはっきり言える人にならなければならない」 (話を聞いた児童)「自分の命は誰かが守ってくれるのではなく、自分の命は自分で守る」 「今のような1日が幸せと思うことができるようになりたいです」 孝行さんと弘美さんの思いは、子どもたちに伝わっていました。
約束を胸に 駆け抜けた12年 「もうちょっと頑張ってみます」
2人は、今も頻繁に女川に通っています。 銀行の跡地近くには、ほかの遺族らとともに慰霊碑を建てました。 「命を守るには高台に行かねばならぬ」「東日本大震災を教訓に職場の命守れ」の文字が刻まれています。
あの日から12年。健太さんとの約束を胸に、駆け抜けました。 (孝行さん)「健太からも『親父、お袋、まだまだ活動がぬるいんじゃないの?』っていうふうに叱咤激励されているように、いつも感じていますのでね。もうちょっと頑張ってみます」 (弘美さん)「ある意味、私たちの生きがいにもなりつつあるのかなっていう。12年たって、なんかそんな感じもしてきました。私たちの思いが次の世代にバトンタッチできれば、それでいいんじゃないかなって思っています」
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