06 September 2018

【高校野球100年】小さな大投手が輝いた夏 磐城の快進撃を支えた田村 (スポニチ)





 高校野球が始まって100年。数々のスターが生まれ、後にプロ入りした選手も多い。一方で、ひたむきなプレーでスタンドを沸かせ、ファンの記憶に残っている選手らも多い。1971年夏の磐城(福島)は、1メートル65の「小さな大投手」と称された田村隆寿投手が決勝まで3試合連続完封勝利を挙げるなど、チームを準優勝に導いた。44年前の夏、快投の裏にはさまざまなドラマがあった。 



 あの夏から、約半世紀が過ぎた。田村さんは、当時を懐かしみながら口を開いた。

 田村さん 決勝まで行けるとは思っていなかったので不思議だった。今振り返ると、夢の中に入っていった感覚。いい夢の中に自分が存在していた。甲子園はそんな場所だった。

 71年は1県1代表ではない時代。磐城は福島大会を勝ち上がり、東北大会で古川(宮城)を下して2年連続の甲子園出場を決めた。


 前年夏、田村さんは捕手として初めて聖地の土を踏んでいた。「思ったより広くないな」という印象だった。1回戦のPL学園戦は延長11回の末、12でサヨナラ負けを喫した。新チームで主将に就任。県大会で投手陣が打ち込まれると、須永憲史監督から「投手をやれ」と告げられた。ランニングは嫌いだったが、風呂に入る前は腕立て伏せを欠かさなかった。「(元巨人の)金田正一さんがやっていると聞いたので」と、湯飲み茶碗を持ち込み、湯船のお湯をかいて手首を鍛えた。

 迎えた2度目の甲子園。1メートル65の身長は、出場30校のエースで最も小柄だった。初戦は優勝候補の日大一。3回に挙げた1点を守りきって5安打完封。静岡学園も5安打に封じ、郡山戦は8安打されながら失点を許さなかった。3試合連続完封で県勢初の決勝に進むと「小さな大投手」と呼ばれるようになった。

 当時は木製バットの時代。大会直前に覚えたシンカーが、甲子園では面白いように決まった。「投げ始めたときは落ちなくて、逆に伸びる軌道になったこともあった。それが東北大会くらいで感覚が分かってきた」。右打者の内角に食い込む新球で、バットを折ることもあった。

 ともに初優勝を懸けた桐蔭学園戦。7回2死三塁から峰尾に左中間へ適時打を浴びた。34イニング目での初失点に「負けたと思った」。峰尾に対する投球は今でも悔いが残る。2球目のファウルで追い込んだ際「審判からニューボールを渡されて、それが凄く滑った」という。ボール交換を要求する余裕はなく、投じた4球目。シンカーが抜けた。「投げた瞬間にまずいと。打者に当たってもいいからボール球になってと思った」。願いは届かなかった。4試合35回を投げてわずか1失点。1球に泣いた。

 初戦で勝利を挙げた後、審判から「しっかり並びなさい」と注意された。それが、準決勝の後には「よく頑張っているな」に変わった。全力疾走がモットーだった磐城ナインは、甲子園で戦うたびに観客を魅了した。

 田村さんは卒業後、日大、ヨークベニマルで野球を続けた。指導者として安積商、磐城の監督で3度甲子園に出場した。「今でもテレビで甲子園は見ますよ。監督の目線になってしまいますけど」と笑う。44年がたった今でも「小さな大投手」は甲子園に引かれている。

 磐城の同期3人が監督として甲子園に71年に磐城の中堅手だった宗像治さんは、現在は福島県高野連顧問を務める。理事長だった11年、震災後に田村さんと再会した。「俺ができることはないかな?と連絡があって、ボールを贈ってもらった」と振り返る。宗像さんも福島北を率いて88年センバツで甲子園出場。1番打者だった先崎さんも日大東北監督として87年夏に甲子園出場を果たしている。「同期3人が監督として甲子園に行った。珍しいですね」と、指揮官として切磋琢磨(せっさたくま)した時代を懐かしそうに語った。

 初出場Vは桐蔭学園磐城を下して初出場初優勝したのが桐蔭学園だった。4番・捕手だった星槎(せいさ)国際湘南の土屋恵三郎監督(前桐蔭学園監督)は「炭鉱の町から出てきた高校でしたから。一塁側の桐蔭応援席以外は、すべて磐城への声援。異様な雰囲気だった。最後の打者は私が飛球を捕りましたけど落とせーという声がスタンドから聞こえました」と回想する。7回1死からカーブを捉えて右中間を破る三塁打を放ち、決勝のホームを踏んだ。甲子園後は日本代表入りし、ハワイ遠征で田村さんとバッテリーも組んだ。「球は速くなかったが、手元で動いた。頭のいい投手だった」と振り返った。[ 2015619 11:30 ]

*この宗像治監督時代の福島北に、秋季東北大会準決勝で、当時の1年生エース大越基が初回から大乱調、3-15で仙台育英はまさかのコールド負けを喫する。勝てばセンバツ当確だった。



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