04 January 2013

田村選手の記事、朝日新聞全国版に載る。

*このブログでもたびたびお伝えして来た野球部OBの田村健太選手とそのご両親の記事が昨年末の朝日新聞の全国版に掲載されたのでここにお伝えする。


朝日新聞2012年12月29日 朝刊
http://www.asahi.com/national/intro/TKY201212280848.html


年の瀬に2012 被災地から 上

健太は生きる ミットとともに

男の子が生まれたら野球をやらせたい。それが父、田村孝行さん(52)の夢だった。
長男、健太さんが野球を始めたのは小学校の頃だ。守備位置は捕手。父の母校、宮城県立古川高校へ入学し、そこの野球部でも捕手だった。
同級生には頼もしい存在だった。足腰を痛めて退部を考えた友に「来たらいいべや」と強く明るく言うこともあった。友はマネージャーとして復帰した。
だが、当時、自分も腰を痛めていた。2年生の年の瀬、実業団や大学の選手も通うという整体師を頼った。「失敗すれば野球ができなくなる」と父が諭しても聞かず、荒療治に臨んだ。
翌日、立てなくなった息子を見て、父は「もう野球はできない」と思った。だが、「あきらめる」とは言わず、黙って歩く練習を始めた。年が明け、考えぬいたように父に言った。これまでより高級なミットがほしいと。審判員の資格をもち野球に通じた父は、最後の夏にかける息子の覚悟を理解した。仙台市の店へ一緒に買いに行った。
そのミットを手に挑んだ3年の夏の宮城大会。古川高は8強入りを果たした。
息子が繰り返したガッツポーズが父の脳裏に焼き付いている。野球を始めてから4個目のミット。それが最後のミットになった。



健太さんは大学卒業後、地元の七十七銀行に就職した。
昨年3月11日は宮城県女川町の支店で勤務していた。地震後、支店長ら12人と共に2階建ての支店屋上に避難し、津波で流された。25歳。翌週、恋人を両親に紹介する予定だった。
父と母弘美さん(50)は浜を歩き、捜しつづけた。野球部の仲間も仕事の合間を縫い、捜索に加わった。海で見つかったのは9月26日だ。
「なぜ高台へ避難しなかったのか」「守ってあげられなくて、ごめんね、ごめんね」。
息子がいない現実を受け止められず、遺骨は今も同県大崎市の自宅の祭壇にある。
なぜ親が子どもの墓を、と繰り返し思う。
それでも、今年の夏、父は、親類が眠る近所の石雲寺に墓所を決めた。80歳の和尚が、息子の霊を慰め、両親も慰めるために作ってくれた七言絶句の漢詩を墓碑に刻むことにした。
お墓をさみしい場所にしたくない。みんなが集える場所にしたい。父はそう考え、思いついた。「健太にミットを持たせたい」

石材店が、山形県の川崎町に暮らす彫刻家、平泉正司さん(53)を紹介してくれた。
9月22日、両親は平泉さんを工房に訪ね、息子のミットとボールを預けた。
5日後、平泉さんからメールが届いた。「四国の庵治(あじ)石を使います。最高級の石です」。その後も経過報告と写真が来た。ほこりをかぶらないようガラスケースに入れられたミットの写真もあった。
11月17日、再び工房を訪ねた。母が声を上げた。「そのまんまだ・・・・・・」。
ボールをはさんだミット。縫い目まで再現された石の彫刻だ。「息子が一番喜びます」。笑いながら涙がほおを伝う。父は「休みの日はお墓へ掃除に行くようになると思います」と言いながら、石のミットをなでた。
10日後、完成品の写真が届いた。薄茶色に染められ内側には黒い色づけ。使い込んだ跡だ。「健太さんの歴史を刻むことができたら」と平泉さんはメールに書いた。
ミットは墓の右側に備えつける。「ミットと共に健太は生き続ける」。そう父は願う。
来年の三回忌。みんなが集まれる土曜日に納骨を行う。
野球部の仲間も集う。
(小野智美)

東日本大震災から2年目の年が暮れようとしている。失った家族をおもいながら、前を向く人たちの物語を3回にわたり伝える。





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