行くぞ甲子園


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22 August 2022

仙台育英、全国制覇 (河北新報号外)ほか 8/22/22

 








*仙台育英おめでとう!今年の選手は地味だが個々のレベルと特に野球脳が高いと感じていた。長年東北の野球を牽引してきた仙台育英がついに、白河の関、の呪縛を解いた。心から祝福を申し上げたい。須江監督は積極的に新しい野球を取り入れ、高校野球の新しい時代の先駆けになったと言っても過言ではないような気がする。今後仙台育英は県内でもますます強くなっていくだろうが、身近に全国一のチームがあるのはこれ以上ない環境である。母校も負けじと、仙台育英を倒して、古高の「甲子園の壁」を破ってほしいと心より思うものである。


【甲子園】仙台育英が涙の初優勝!東北勢13度目挑戦で大旗、悲願の「白河の関越え」宮城県勢初の満弾 (スポニチ)



 東北が長く待ちわびた深紅の優勝旗がついに「白河の関」を越えた。試合終了の瞬間、仙台育英ナインは笑顔をはじけさせ、マウンドに駆け寄った。

 出場29度目にしてつかんだ初優勝は、東北勢にとっても悲願だった。第1回大会の1915年、秋田中(現秋田)が敗れてから、東北勢の夏の決勝戦は9戦9敗。春も3度、決勝で阻まれた。

 これまで春夏計12度、東北勢が涙をのんだ決勝。大一番でも仙台育英の「つなぐ」野球は不変だった。

 ベンチ入り全5投手が最速145㌔超という「5本の矢」が束となり、初戦・鳥取商戦から準決勝・聖光学院戦まで4試合すべて継投で勝利。この日も先発・斎藤蓉(3年)が7回1失点と試合をつくると、つないだ2番手・高橋煌稀(2年)も下関国際打線を抑えた。

 打線もつなぐ野球を体現した。打順が二回り目に入った4回、先頭・山田脩也(2年)が二塁打を放つと、1死三塁から4番・斎藤陽(2年)の右前適時打で先制。5回は2死三塁から橋本航河(2年)、山田の連続適時打で追加点を奪った。7回には無死一塁から橋本が右中間を破る適時三塁打で加点した。

 準決勝までの4試合で1度も出なかった本塁打は、7回に岩崎生弥(3年)が今大会初アーチを記録。打線がつないで1死満塁にすると、宮城県勢として春夏通じて甲子園初となる満塁弾で大量リードを奪った。

 東北の先輩たちが越えられなかった最後の「難所」を乗り越えられたのは、全員野球で「つなぐ」チーム力の証しである。

【甲子園】仙台育英・須江監督 宮城、東北に「おめでとうございます」コロナ禍で「全国の高校生に拍手を」(スポニチ)



 仙台育英が春夏通じて東北勢初となる優勝を果たした。

 試合終了の瞬間、笑顔でマウンドに集まるナインとは対照的に須江航監督は目を真っ赤にはらし、左手で顔を覆った。

 「宮城の皆さん、東北の皆さん、おめでとうございます!100年開かなかった扉が開いたので多くの人の顔が浮かびました」。優勝監督インタビューでも目をうるませたままだった。

 東北勢にとって悲願の初優勝。「準決勝を勝った段階で東北、宮城の皆さんからたくさんメッセージをいただいて、本当に熱い思いを感じて、それに応えられて何よりです」と素直に喜んだ。

 打線は2廻り目に入った4回に相手エース・古賀康誠(3年)を攻略。「前半は古賀くんがすごくいい投球をしていたので、焦りはありませんでしたけど、翻弄されている感じでした。宮城大会1回戦から培った今年の選手ができることを選手自身が立ち返ってよくやってくれた」と労った。

 投手陣も斎藤蓉(3年)、高橋煌稀(2年)とつなぎ、下関国際打線を1点に抑え「今日は本当に斎藤が良く投げてくれて、県大会は投げられない中でつないでつないで高橋、今日投げなかった3人、スタンドにいる皆がつないだ継投だと思います」と部員全員を称えた。

 今年の3年生は入学時から新型コロナウイルスの影響を受け続けた学年。それだけに指揮官は「入学どころか中学の卒業式もちゃんとできなくて高校生活というのは、僕たち大人が過ごしてきた高校生活とまったく違う。青春て密なので、そういうことがダメだと、活動もどこかでいつも止まってしまう苦しい中で本当に諦めないでやってくれた」と感謝した。

 そして「そうさしてくれたのは僕たちだけでなく全国の高校生の皆が本当によくやってくれた。下関国際さんや大阪桐蔭さん、目標になるチームがあったからどんな時でも諦めないで走って行けた。すべての高校生の努力のたまもの。全国の高校生に拍手を送ってほしいです」と語りかけると、聖地から大きな拍手が沸き起こり、全国の高校球児、高校生の3年間を称える拍手となった。


【佐々木主浩】仙台育英Vに一東北人として感慨「白河の関」の呪縛取れ、他の5県もレベルアップ (日刊スポーツ)



近年も八戸学院光星や金足農が決勝に進んでいたので、東北勢はいつ勝ってもおかしくないと思っていた。それでも一東北人としては、やっと勝ってくれた、と感慨深い。

私は東北高出身だが、ライバル校というより、宮城県が最初でうれしい。昔は雪が積もる冬場に、屋外で練習ができなかった。小さい室内練習場はあったが、本格的な練習はできなかった。仙台育英は寮や施設が整う。学校の協力態勢が素晴らしいし、環境の良さに結果で応えた選手たちも「あっぱれ」だ。

時代が変わった。自分は甲子園で10試合中9試合で完投したが、今の野球は最低2人の投手が必要だ。30年前とは暑さのレベルが違う。育英のように5枚もそろえるのは、時代に合わせた戦い方と言える。84、85年に甲子園に出た時はPL学園の全盛期でもあり、正直、同じ高校生でも力の差を感じていた。今の選手は気後れをすることはないのだろう。

プロ野球の球団が本拠地を置いた影響も感じる。日本ハムが北海道に移った後、駒大苫小牧が優勝した。楽天が仙台に来て、東北でもプロ野球を小さいころから見られる機会が増えた。子供はまねから入るのが上達の近道。野球教室でプロ選手と触れ合ったり、スクールも設立された。出身の子が各高校に進んでいる。

「白河の関」という呪縛が取れた。宮城県はもちろん、他の東北5県も追い付け追い越せでレベルアップするだろう。東北全体に好影響を与えてくれた。

(日刊スポーツ評論家)


【甲子園】71年に磐城で準V田村隆寿さん「チャンスがあると思っていた」 小さな大投手も東北勢初V祝福 (スポニチ)


 初めて決勝に進んだ1915年の秋田中に始まり、東北勢の春夏通算13度目の決勝進出で達成した悲願。過去に決勝で敗れた元球児たちが当時を振り返りつつ、初制覇を喜んだ。1971年夏の甲子園で磐城を準優勝に導き、「小さな大投手」と言われた田村隆寿さん(70)が仙台育英の優勝にメッセージを寄せた。

 私の頃から、もう半世紀ですね。先に北海道の駒大苫小牧が優勝していたから、そろそろ東北にもチャンスがあるんじゃないかなと思っていました。

 仙台育英は竹田利秋監督、佐々木順一朗監督があと一歩のところまで行かれた。今年のチームは打線が良かったですし、投手も5人が140キロを投げる。球数制限が導入されて難しい時代だと思いますけど、5人いればそこは考えないで戦えますからね。今は1人の投手で勝ち上がるのは厳しい。聖光学院の佐山未来君は頑張って投げていましたけど、だいぶ疲れがあったと思います。個人的には福島勢が(優勝を)、というのはありました。

 71年の夏は決勝で桐蔭学園に0―1で負けました。あの頃は木のバットで、低めに投げておけば大丈夫というのがあった。4試合で死球は2個出しましたけど、四球はなかったです。走者が二塁に行ったらシンカーを多めに投げていたのを覚えていますね。常に1点勝負と思っていたので、決勝は7回に1点取られて“負けてしまう”と思いました。

 岩手からは菊池雄星君(花巻東=現ブルージェイズ)、大谷翔平君(同=現エンゼルス)、佐々木朗希君(大船渡=現ロッテ)と凄い投手がたくさん出ている。間違いなく東北のレベルは上がっていますね。


【甲子園】悲願の東北勢初V! 太田幸司氏「呪縛から解き放たれた」 三沢で18回再試合の激闘から53年 (スポニチ)



 ◇第104回全国高校野球選手権大会・決勝 仙台育英8ー1下関国際(2022年8月22日 甲子園) たった一人、マウンドで土を集める三沢・太田幸司  初めて決勝に進んだ1915年の秋田中に始まり、東北勢の春夏通算13度目の決勝進出で達成した悲願。過去に決勝で敗れた元球児たちが当時を振り返りつつ、初制覇を喜んだ。1969年夏の決勝で松山商(愛媛)と延長18回引き分け再試合の激闘で、2試合で計261球を投じた太田幸司氏(70)も、仙台育英の優勝にメッセージを寄せた。  長かった。東北は勝てないって100年以上、言われ続けていたからね。呪縛から解き放たれたでしょ。でも、ここ数年の試合を見たら大阪桐蔭にかなわなかっただけで、選手は格段にレベルアップしている。  準決勝で戦った2校はやはり力強い。僕らの時代、東北のチームがパワフルなんてなかった。今回の特徴といえば仙台育英は強力投手陣、聖光学院は強力打線。140キロを超えるピッチャーが1チームに何人もいるなんて考えられなかった。  確かに4年前の金足農や自分らのように、地元の選手だけじゃない。仙台育英も聖光学院も野球留学生がいて批判はあるだろうけど、やはり、それがあったからこそ、東北全体のレベルが上がったんじゃないかな。我々の時代はそういう背景がなかっただけで、プラスには作用していると思う。  三沢が決勝まで勝ち進んだのは53年前か。当時僕らは宿舎から一歩も出させてもらえず隔離状態だったから、世の中がどうなっているか分からない。新聞とかも見せてもらえない。ただ、試合が終わって球場を出て、歩いてバスに乗るまでが大変だった。周りの人だかりが勝ち進むごとにドンドン増えて囲まれて、なかなかバスにたどり着かない。凄いことになっているなと初めて感じた。


【甲子園】89年仙台育英で準Vの大越基さん 母校の優勝に「うらやましい。悔しいというか不思議な感覚」(スポニチ)


 ◇第104回全国高校野球選手権大会・決勝 仙台育英8ー1下関国際(2022年8月22日 甲子園)  初めて決勝に進んだ1915年の秋田中に始まり、東北勢の春夏通算13度目の決勝進出で達成した悲願。過去に決勝で敗れた元球児たちが当時を振り返りつつ、初制覇を喜んだ。1989年夏、仙台育英のエースとして、帝京(東京)との初の決勝に臨み、0─2で敗れて惜しくも準Vに終わった現早鞆(山口)監督の大越基さん(51)。あれから23年。母校の悲願の初優勝にメッセージを寄せた。  仙台育英と下関国際の決勝は不思議な感覚ですよね。(現在は下関市の早鞆で監督を務めており)うらやましい。悔しいというか不思議な感覚でした。  最近の東北勢は強いし、堂々と野球をしている印象があります。いろんな県からも来ているし、そこに東北の選手が融合しているから選手のバランスが良くなったんじゃないですか。ここ最近、準優勝が多くて東北地方の指導者の方々が“俺が最初に優勝する”とお互いが切磋琢磨(せっさたくま)している感じも見えますね。  自分が甲子園で一番やりにくかったのは89年準々決勝の上宮戦。完全アウェーでした。上宮打線がチャンスをつくると球場がわーと盛り上がって、申し訳ないことをしている感じになるんですよね。  決勝の帝京戦は私への拍手が凄かったので、めちゃくちゃやりやすかったです。4連投目で体が言うことをきかなくて、(試合開始から)3球全てボールだったんですよ。4球目ストライクが入ったら、拍手がめっちゃ凄かったんです。たった1球のストライクで。「よっしゃ」と思って、泣き言を言っていないで、ちゃんとやってみようと思って。そうしたら、あんなピッチング(10回2失点)ができた感じです。  自分は12年の選抜に監督として出場しました。あと1回は出られるように頑張ります。



番外編

【昭和の甲子園 真夏の伝説(3)】炭鉱閉鎖の町の希望 小さな大投手が挑んだ東北の夢 磐城・田村(スポニチ)



 甲子園の熱い夏が始まった――。第104回全国高校野球選手権が6日に開幕。幾多の名勝負が繰り広げられた聖地で、今年はどんなドラマが生まれるのだろうか。今回は「昭和の甲子園 真夏の伝説」と題して、今も語り継がれる伝説の試合を10回にわたってお届けする。

~三沢の「決勝延長再試合」から2年後 東北の進学校が~

 青森・三沢高の「決勝延長再試合」から2年後、同じ東北の公立校で深紅の大旗に肉薄したチームがあった。1971年(昭和46年)東北代表の福島県立磐城高等学校。プロが注目する選手は1人もいない。身長1メートル70にも満たない選手の集団でエース&4番の田村隆寿は大会出場校の背番号「1」の選手で最も小柄な1メートル65。初戦(2回戦)優勝候補の日大一(東京)を完封すると勢いに乗った。県内屈指の進学校の球児たちが快進撃で決勝の舞台に立った。

~相手は甲子園初出場 経験値は磐城が上だった~

 2021年までに春夏の甲子園で東北勢が決勝に進出したのは12回。そのうち公立校は1915年(大正4年)秋田中(現秋田高)、1969年(昭和44年)三沢、1971年磐城、2018年(平成30年)金足農の4校だけだ。第1回大会の秋田中(相手は京都二中)は別として、決勝で対戦した相手を見ると三沢は伝統校・松山商、金足農は平成最強といわれる大阪桐蔭だった。磐城はというと…。相手は桐蔭学園。激戦区神奈川の代表とはいえ、甲子園は春夏通じて初出場。創部からわずか5年。夏の神奈川大会初勝利から3年しか経っていない新興校だった。磐城はこの大会が2年連続4度目の夏出場。明らかに「経験値」では上。東北勢初優勝の期待は三沢以上に高まっていた。

 8月16日の決勝戦。磐城打線は初回から桐蔭学園・大塚喜代美に襲いかかる。先頭の先崎史雄はアンダースローの大塚の内角攻めを封じるため打席の本塁ベース寄りに立った。四球で出塁。すかさず二盗を決めた。宗像治が送って1死三塁。しかし、若尾佳生、田村が凡退。絶好の先制機を逃してしまった。3回には先頭の野村隆一が三遊間を破り出塁。送りバントで1死二塁としたが1本が出ない。4回には2死二塁。5回にも無死二塁の好機を築くが大塚の巧みな投球にかわされた。

 磐城のエース田村は冷静だった。初回2死から内野安打を許す。ここで桐蔭打線は4番・土屋恵三郎でヒットエンドランを仕掛けるが打ち取った。2回にも1死一塁からエンドランを仕掛けられても慌てない。内角に切り込むシンカーと打ち気をそらすスローカーブ。準決勝までの3試合27イニングでわずか四死球2の精密機械のようなコントロールでアウトを重ねていった。6回まで互いにゼロ行進。緊迫の投手戦は終盤に突入した。

~炭鉱閉山 沈んだ故郷 希望の星だった~

 この年、地元いわき市にあった最大規模の炭鉱が明治からの歴史に幕を閉じた。閉山により磐城高の生徒の家族らが離職を余儀なくされ、炭鉱の町は暗く沈んでいた。磐城の甲子園出場は地元の希望そのものだった。

 ただ道のりは険しかった。前年の70年磐城は夏の甲子園に出場しているがPL学園(大阪)に初戦敗退。その試合、田村のポジションは捕手だった。センバツを目指した秋の福島県大会では投手陣が不安定。田村が急きょ投手に転向したが、準決勝で小高工に敗退。東北大会の出場を逃している。翌71年春の地区大会で敗退しノーシードで迎えた夏。厳しい練習と学業の両立に耐えられず退部者も出た。残った選手は1メートル70に満たない選手ばかり「ちびっ子軍団」と呼ばれていた。エース田村を中心に福島大会を勝ち上がり準決勝で湯本を撃破。福島と宮城から2校ずつが出場する東北大会へ進出した。東北大会準決勝の相手は宮城の東北。春夏9度の出場(当時)を誇る強豪だった。田村は6安打2失点で完投勝利。決勝は古川(宮城)に2安打1失点の快投。主砲として5打数4安打3打点の大暴れ。甲子園切符をつかんだ。

~県内屈指の進学校 情報戦で最強左腕倒した~

 小兵揃いの磐城だが進学校らしい強みがあった。データ野球、情報戦がそれである。須永憲史監督を中心に対戦校の顔ぶれ、特徴、プレーの傾向などを徹底的に調査し選手たちにたたき込んだ。試合当日、磐城のベンチには縦1メートル50、横1メートルの模造紙が張られる。そこには「足が速くセーフティーがうまい」「スタンスはクロスでバットを短く持ち当ててくる」など須永監督から伝えられた相手選手のデータがマジックで詳細に書かれている。「ミーティングで伝えても試合で興奮すると忘れてしまうから」。捕手の野村隆一は「試合中に見ると落ち着くんです」と勝つために相手を知りベストを尽くす野球が選手たちに染み付いていた。

 甲子園の抽選会、田村主将が引いたくじは2回戦から出場―対戦相手は東の横綱といわれた日大一だった。エースは大会最強左腕の呼び声が高く、この年のドラフトで東映(現北海道日本ハム)に2位指名される保坂英二。日大出身の須永監督の目の色が変わった。日大系列校には負けられない。保坂対策として社会人野球で活躍していた左腕OBを大阪に呼び寄せ、マウンドから5メートル近い距離から投げさせた。剛速球対策、選手たちは必死に食らいついた。OBを中心とした別部隊が日大一の練習を視察し、
サインの傾向を伝えた。迎えた8月11日の初戦、保坂に11三振を奪われながら3回2死一、二塁から宗像のタイムリーで挙げた1点を田村が守り抜き勝利した。

~「孫悟空」がシンカー駆使して27回無失点~

 出場校が30校の時代、2回戦から登場の磐城は1つ勝てば8強となる。準々決勝は静岡学園。初回に2点、9回にも1点を加える。田村は5安打無四球完封。福島県勢初の4強に導いたヒーローは注目されるようになった。お立ち台では「2点程度に抑えればと思っていましたから」「デキは65点ぐらいかな」と笑顔で話し、スポニチをはじめ翌日の新聞各紙にはチーム内でのニックネームが「孫悟空」であることなどが大きく報じられた。準決勝は郡山(奈良)に8安打を打たれながら変化球でかわす絶妙なピッチング。3試合連続完封で決勝の舞台に上がった。「連投でも疲れはない。大丈夫。桐蔭学園は力があるし、低めに丁寧に投げます」と田村。「ここまで来たら負けられない」と言葉に力をこめた。

~6日間の「冒険の旅」土産は甲子園の土~
 
 運命の決勝は終盤7回に入った。磐城が得点機を逃した直後、田村は1死から土屋にカーブを右中間へ三塁打される。続く三谷又衛を打ち取り2死とした。打席には峰尾晃。2球目のファウルで追い込んだ際、郷司裕球審から新しいボールを渡された。3球目に投げた直球、滑る感触が手に残った。高校野球でボール交換を要求できるはずもなく投じた4球目。シンカーが抜けた。打球は快音を残して左中間へ達した。大会34イニング目の初失点。終盤に降り始めた強い雨。反撃は雨音にかき消され、最後のときを迎えた。

 試合後、田村はインタビューで「峰尾にはシュートを投げたのがすっぽ抜けてしまった」と話している。当時、高校野球レベルではシュートとシンカーの違いを明確に表現することはなかった。涙はない。報道陣から離れた田村はマウンドに走り「甲子園の土」を袋に入れた。初戦が行われたのは8月11日で決勝は同16日。「小さな大投手」と「ちびっ子軍団」の6日間の濃密な「冒険の旅」が終わった

~磐城同期3人が監督として甲子園に里帰り~

 〇…エースだった田村さんは指導者として安積商(現帝京安積)を率い79年夏、82年夏に甲子園出場(いずれも初戦敗退)85年夏には母校・磐城の監督として出場を果たした。(初戦敗退)。88年11月からは聖光学院の監督となり後に甲子園常連校となるチームの礎を築いた。2番・中堅の宗像治さんも福島北を率いて88年センバツで甲子園出場。2回戦神港学園に勝利。3回戦で津久見に敗退した。1番・遊撃の先崎史雄さんも日大東北監督として87年夏に甲子園出場、1回戦延岡工に敗退している。
 
~「全日本」の正捕手は浜田高・梨田昌孝~

 〇‥大会後にハワイ遠征メンバーが選出された。決勝で対決した大塚、田村らが名を連ねメンバーからプロに進んだ選手は5人。投手では保坂英二(日大一)が71年東映2位、鶴崎茂樹(筑紫工)は同年南海5位、水谷啓昭(東邦)は駒大、新日鐵名古屋を経て78年中日に3位入団。捕手では梨田昌孝(浜田高)が71年近鉄2位、内野手では岡義朗(岡山東商)同年広島5位でプロ入りしている。一方、71年夏の甲子園に出場した選手では藤沢哲也(鶴崎工)71年中日1位、竹内広明(深谷商)同年大洋1位。日本石油を経て74年大洋1位でプロ入りした根本隆(銚子商2年)らがいる。


2 comments:

  1. 決勝で満塁ホームランを打ってヒーローになった岩崎君は古川中学校卒なんですよね。
    3回戦の対戦相手の明秀日立の外野手の佐藤光成君も古川中学校卒で岩崎君と同級生でした。

    宮城県勢で初めて決勝に進出した平成元年の仙台育英の主力選手のF原君とY口君も古川中学校卒でした。(shigeTさんと同学年ですね)

    そういう選手が私立高校ではなく地元の古川高校へ入って甲子園出場へ導いてほしいものです。

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  2. コメントありがとうございます。満塁ホームラン、宮城勢で初らしいですね。高めのボール球を金属バットのヘッドを効かせてうまく打ってました。全体に選手が東北初とか、優勝戦だとか物怖じした様子がなく、時代も変わったなと思いました。古川中は昔から好選手を輩出しています。今後もこれで仙台育英人気がますます高まると思いますが、まずは東北の子供たちで新しい野球を展開して、異常な大阪桐蔭の一強時代を終わらせて欲しいと思います。須江監督はその可能性を示したと思います。これで宮城で高校野球人気が復活し、どんどん地元の生徒が古高にも入部して、育英を倒していく姿を見て見たいものです。

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