行くぞ甲子園


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古川高校の歴史

祝 創立120周年

HP; http://furuko.myswan.ne.jp/




古高応援歌集
(テープ音源。私が入学時(S62)に応援練習の為に回って来た
ものだが、誰かが誤って録音ボタンを押して上書きしたためか
何かで、校歌冒頭部分が一部欠如している。ところで
今となってはこれは誰が歌っていたのだろうか?
合唱部の先輩方なのだろうか?)


1 古高の歴史と伝統

創立………  1897(明治30)年

校風……… 質実剛健、学問尊重、自主自律

2  学校沿革



明治30年(1897) 4月1日   宮城県尋常中学校志田郡立分校と称し創立 


明治30年(18975月3日    開  校
明治32年(1899)     宮城県中学校志田郡立分校と改称
明治33年(1900)  宮城県第三中学校として独立
文部省告示第六十三号 (官報第五〇〇四号)明治三十三年三月十日
宮城県中学校志田郡立分校ヲ本年四月ヨリ県立に変更シ宮城県第三中学校ト改称ノ件認可セリ
明治三十三年三月十日 文部大臣 伯爵樺山 資紀(かばやますけのり)
*右に宮城県第二中学校(仙台二高)開講の認可

明治40年(1907)     宮城県立古川中学校と改称

大正 8年 (191910月10日 宮城県古川中学校と改称
昭和23年(19484月1日     宮城県古川高等学校と改称
平成17年(20054月1日      男女共学化



蛍雪章について


創立当時は「中」の字だけでしたが、校名が宮城県古川中学校と改名された時(大正8年)に、「中」の字を稲穂の中に入れた校章(図1)になりました。
昭和23年、宮城県古川高等学校と改められるに至り、蛍雪章(図2)が校章となりました。
この蛍雪章の歴史は古く、大正末期にその端を発しています。
中国・晋の車胤が蛍の光で、また孫康が雪の明かりで書を読み、乏しきを憂えず、孜々として勉め励み、蛍雪の功空しからずという故事によるものです。1年間の皆勤者には、銅製6角形に蛍雪を表した襟章(図3)を授け、2年以上の皆勤者には純銀製の襟章を授けて、その功を讃えました。また、学友会功労賞も同じようにこの形が用いられており、本校卒業生にとってなじみ深いものです。
 

校歌

作詞 星合愛人 作曲 田村虎蔵
一、
心の琴(こと)の絃(いと)も張る 春は万朶(ばんだ)の花の雲
胸の思いも澄みわたる 秋は黄金(こがね)の稲の波
つきぬ眺望(ながめ)の大崎に 基礎(もとい)を置ける教(おしえ)の舎(や)

二、
嵐をやどす栗駒(くりこま)や 雲井(くもい)に晴るる船ヶ岳(ふながたけ)
晴に曇にゆるぎなく 空を凌ぎて立つを見よ
高きを慕ふわが胸の 理想の影とよそふべく

三、
緑を染(そ)めて溶々と はしる荒雄(あらお)や鳴瀬川(なるせがわ)
『学(まなび)の道にすすむ身の 鑑(かがみ)は我(われ)』と囁(ささや)くか
日夜に行(ゆき)てたゆみなく 果(はて)ははてなき大海(たいかい)に

四、
其水(そのみず)長く山高き 我が東北の大原野(だいげんや)
気(き)の秀麗(しゅうれい)を身に受けて 健児空しくやむべきか
青春今を盛(さかり)にて 我が胸躍り我が血湧く



1910年(明治43年)4月制定
作詞は国語・英語担当の星合愛人教諭(他に福島県郡山市立安積第一小学校校歌の作詞がある。1920年代台湾総督府職員となり、台北州立第二高等女学校の教諭を勤め、その校歌の作詞も担当している。雅号 星合萩畔(萩畔子)の歌人でもあった。著書に「草蘆集(大正7年刊行)」、「呼子鳥 (昭和2年 台北文明堂書店刊、改定 草蘆集再録、装幀 萩谷秋琴(明治期の日本画家。横山大観等に学ぶ))」、「青葉の笛(昭和4年 同)」、「詩集 心の影(昭和5年 同)」などがある

例えば安積第一小学校校歌の一番、

”山の姿や 水の色
花にもみじに 春夏の
つきぬながめを 集めたる
学ぶ わがやの 美しさ”


の「つきぬながめ」、→古高校歌つきぬ眺望(ながめ)の大崎に
や、

台北州立第二高等女学校 校歌の4番、

”流れてやまぬ 淡水の 
はてなき海に そそぐごと 
ときに先立つ 学園の 
理想の海に こぎ出でむ”

「はてなき海」→古高校歌「果ははてなき大海に」
「理想の海」→古高校歌「理想の影とよそふべく」

など、古高の校歌の歌詞と似た 作者の作詩上の癖、特徴が非常によく現れてる。


*もっとも、この「理想の影」というフレーズはこの時代の一つの流行でもあっただろうか、様々な校歌に使用されているようだ。有名なのは相馬御風による1907年制定の早稲田大学校歌「都の西北」の一節、「やがても久遠の 理想の影は」。古高校歌の制定は1910年。非常に近い年代である。


作曲は東京音楽学校田村虎蔵(1873-1943)教授であった。田村教授は「花坂爺」「金太郎」「牛若丸」「浦島太郎」などの幼年唱歌の作曲家として有名。
(確認は昭和42年、七〇周年の資料収集において)他に当時音楽教諭をつとめていた東京都立上野高校の校歌の作曲も手がけている。


    1910年頃  田村虎蔵教授  田村虎蔵旧居跡
                     (東京都新宿区指定史蹟)


                     


*左の写真は1910年頃、ちょうど古高校歌作曲の頃の写真。1910年は田村教授37歳。意外にもあのメロディはこの東京新宿の地で花坂爺のメロディとともに誕生した可能性が高い。

1900 金太郎の歌(『幼年唱歌』収録)
1901 花坂爺の歌(『幼年唱歌 初編 下巻』に収録)
1910 宮城県立古川中学校(宮城県古川高校)校歌


古高ブラバンの皆さんには野球部得点時にはこの歌をお願いするしかない。
古高にこそ一番ぴったりのテーマといえよう。
ちなみにこの替え歌は広島商業高校の生徒手帳にも
載っているもので発祥は広島商業であるらしい。
それから転じて、広島県内の高校、
さらに広島カープが応援で盛んに用いるようになった。
広島商業生徒手帳に載っている歌詞は
「宮島さんの神主が 御みくじ引いて申すには
何時も広商は 勝ち 勝ち 勝ち 勝ち」




図南歌


作詞 西山静、菅野又雄  作曲 藤井清

一、
船形おろしの雪消えて 大崎原頭かすみひき
花らんまんの春来れば 紅燃ゆる胸の血を
青春の意気もて包みつつ 多感の遊子は去り行きぬ
ああ心のふるさとなつかしの母校
二、
千古の秀峰栗駒を 朝な夕なに仰ぎつつ
びょうたる西風身に受けて 三つ歳ここに鍛えたる
鉄腕熱血生気満ち 学びの校舎を巣立つ時
ああ猛者の眼につゆ宿る

古川高校の第二校歌とも言われている図南歌は、歌詞からもわかるように卒業にあたって母校を去る寂しさと未来への希望とを歌ったものである。中学42回卒業の級友たちの間で、卒業の記念として分散歌を作ることになり、西山静、菅野又雄両氏が作詞を引き受け、作曲は物理担当の藤井清教諭に依頼し、1942年(昭和17年)秋頃完成した。後年、生徒間に評判よく後輩へと受け継がれ、卒業後OBが同窓会などで母校への万感の思いを込めて歌われるようになる。(確認は平成9年、百周年に当たって野村喜太郎同窓会長より)



野球部の歌

作詞作曲 小野寺誠毅

1.立てよいざ立て我が友よ
戦わんかな時至る
正義の楯に赤熱の
血潮たばしる我等がナイン

2.彼に孫呉の術あらば
我に竜虎の智勇あり
戦の庭の花吹雪
散らさで敵を帰すべき



球技部の歌
一、
大崎耕土に秋たけて
 治乱の夢をこえ行けば
高なる胸の紅の
 若人の血は燃えにけり
二、
熱球とべば目にも見よ
 音にも響く古高の
奮えや奮え我が選手
 覇権を握る秋はきぬ


剣道部の歌

山紫に水清き
 大崎耕土の暁に
知るや時代の鐘の音を
  我がたましいに呼びかけて
真理の秘庫をひらかんと
 剣もて我は進むなり


凱歌
作詞 佐藤公哉 作曲 庄司芳武

一、
我らの夢は古高の
庭に芽生えて育ちゆく
鍛えにきたえ今ここに
勝利輝き意気高し
母校の栄誉守り得つ
古高古高我等は勝てり

二、
螢に雪は古高の
我ら希望の旗じるし
決意新たに励みきて
勝利再び我が胸に
闘魂燃やし戦わん
古高古高我等が選手



古高の本領*軍歌「歩兵の本領」の流用)

一、
万朶の桜か襟の章
花は古高に嵐吹く
古高生となったれば
○高戦の花と散れ
※ソレ勝つぞ勝つぞ古高
二、
尺余の太鼓を打ち叩き
紫の旗高く上げ
知らずやここに八十年
鍛え競いし古高魂
※繰り返し

三、
船形山を突破せし
歴史は古く雪白し
○高戦の活動は
古高生の花と散れ
※繰り返し

四、
退くことは我知らず
見よや閃くこの旗を
古高の戦は攻撃で
敵を怯ませその隙に
※繰り返し

五、
前進前進又前進
肉声轟く所まで
我が古高の勝敗は
攻撃最後の数分時
※繰り返し

六、
古高の本領ここにあり
あな勇ましの我が選手
会心の友よ時は今
共に励まん我が任務
※繰り返し


一般応援歌
一、
北にうそぶく大崎の
 健児図南の意気高し
見よ栗駒のその雄姿 
 理想のわれらが面影を
鉄騎一たび鞭あげば
 全軍の意気天をつく
二、
鳴瀬の川に月淡く
 東雲空を染むる時
紅燃ゆるもみじばは
 神の恵かひおどしか
古高の猛者戎衣の風

 鎧袖一触何かあらん

柔道部の歌

一、
春繚乱の花の雲
 散りて吹雪と 紛う時
花の香遠く一筋に
 劉備の訓え身にしみて
柔の道に勇み行く
 白衣の健児意気高し
二、
夏大崎の野に立ちて
 万象炎と燃ゆる時
天駆けり行く大鵬の
 万里の波濤を乗り越えて
柔の道にいそみ行く
 白衣の健児意気高し

*柔道部の歌というのはいつ頃できたのであろうか?少なくとも筆者在籍時には歌唱指導された記憶なし。聴いてみたらこれがなかなかの名曲である。