行くぞ甲子園


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02 April 2026

万朶の花の彼方へー古高黎明期の人々 1 ある投稿より

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*このブログに以下のような投稿があった。

前略 突然、メールしてすみません。「宮城県古川高校野球部を甲子園へ」のブログを拝見しました。私は、都立立川高校(東京府立第二中学校)を卒業したのですが、今、校歌の作詞者と関連して、初代の校長「森慎一郎先生」のことを調べています。

森先生は、明治24年~明治31年 宮城県尋常中学校で教え、明治31年~明治326月 宮城県尋常中学校志田郡立分校の主任あるいは校長として教えていたと思われます。

 




これには、森先生が、最初の校長で3年、勤務したとあります。

「全国学校沿革史」には、明治31年8月校舎が完成し、その時は、校長は、仙台の尋常中学校の校長、下條幸次郎が兼務。分校主任が森慎一郎となっています。

 

おそらく、「古中・古高百年史」の記録が、一番正しいと思われますが、森先生が古川中学におられた年数は、どのように書かれているか、教えてもらえないでしょうか。また、先生に関する記事、写真等がありましたら、教えてください。

よろしくお願いします。

 

森先生は、おそらく先生のペスタロッチなどの教育論が当時の教育勅語の教育と合わなかったのでしょか、東京府立第二中学校の校長職を75カ月でとばされ、赴任先の富山中学校長を一年半でやめ、以後公職から一切手を引いています。その後、「言海」の大槻文彦先生の序による「新撰漢文典」という漢文の文法を教える本を書かれています。


森慎一郎先生の六男、蘊(おさむ)さんは、朝日新聞の連載「父ありき」で、「剛直で潔癖、当時の東京府知事の息子を二度落第させたのち退学処分にした。そのためか、富山県の中学へ転任させられた。」(当時の府知事は、千家尊福:せんげ たかとみ 年のはじめのためしとて…♪ の作詞者:出雲大社宮司:後の司法大臣)

「世事にはうとく、コツコツ勉強を続ける学者だった。・・・教育学研究では、ペスタロッチを原書で読んでいたと書かれています。。

蘊(おさむ)さんは、東京府立第二中学校の敷地にあった校長先生の家で生まれ、幼児期を過ごしたと思われます。東京大学を出られて、桂離宮や修学院離宮の庭園を昔の姿に復元する仕事をした人です。」





ーーーふむふむ。これはずいぶんと難しい質問を「宮城県古川高校野球部を甲子園へ」ブログに寄せられたものである。恥ずかしながら、古高開校当初の経緯や人物に関しては、私は何の知識も無い。かろうじて校歌の作詞者である星合愛人先生について調べた過去があるだけだ。


東京都内での旧学制の中等教育学校は、


東京府第一中学(1878年⇒ 東京都立日比谷高等学校(1950年)

東京府第二中学校(1901年⇒ 東京都立立川高等学校(1950年)

東京府第三中学校(1901年⇒ 東京都立両国高等学校・附属中学校(2006年)

東京府立第四中学校(1901年⇒ 東京都立戸山高等学校(1950年)

東京府立第五中学校(1918年⇒ 東京都立小石川中等教育学校(2006年)

東京府立第六中学校(1921年⇒ 東京都立新宿高等学校(1950年)

東京府立第七中学校(1922年⇒ 東京都立墨田川高等学校(1950年)

東京府立第八中学校(1922年⇒ 東京都立小山台高等学校(1950年)


他にもあるが、いわゆる旧制府立ナンバースクールはご覧のように名だたる名門校揃いで、その第二中が前身である立川高校、1901年開校、その初代校長が、古高の前身の志田郡立分校主任の森慎一郎氏であるという話で、不勉強の私はもちろん初めて知ったが、興味深くもあり、誇らかな話である。


ぜんたいに、歴史とともに田舎に埋没しつつあるような古川高校ではあるが、その開校当初の黎明期を支えた人物を調べると、実に全国に誇れるような人材がいたことに驚かされる。東北の辺鄙な田舎に、優秀な教員が集い、地元の血気あふれる若者のために中学校開校に尽力し、そこで育った若者は、いまに歌い継がれる校歌を高らかに歌い、万朶の花雲の向こう側に大いなる大志を持って巣立っていった。そんな誉高い歴史が我が古川高校にあることを伝えていくために、これから数回にわたって、「万朶の花の彼方へー古高黎明期の人々」と題して、その人物像と歴史を書いてみたいと思う。









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