行くぞ甲子園


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09 September 2013

田村選手 続報 河北新報 9/9/13


9・8の河北新報に田村選手のご両親の記事が掲載された。

 東日本大震災の発生から11日で2年半となる。津波で命を落とした七十七銀行女川支店(宮城県女川町)の元行員田村健太さん=当時(25)=の父孝行さん(52)と母弘美さん(51)=宮城県大崎市松山千石=は、複雑な思いでその日を迎える。銀行側の安全配慮義務違反だとして提訴し、ちょうど1年。両親は「息子は銀行を誇りにしていた。再発防止のためにも行員の死に誠実に向き合ってほしい」と訴え続ける。

 田村さん夫妻は8月24日、健太さんの墓参りに訪れた。昨年12月に建てた墓の脇に、野球のキャッチャーミットをかたどった白御影石の彫刻をしつらえた。
 小学生時代から野球に打ち込んだ息子を喜ばせると同時に「かつてのチームメートが集まり、思い出話をしてくれるように」(孝行さん)との願いを込めた。

 健太さんは東京の大学を卒業後、地元に戻って七十七銀行に入った。金融の仕事に戸惑いながらも勉強を重ね、入行3年目の2010年春から女川支店で勤務した。
 震災が起きたのは、昇格試験に合格し、交際中の女性を両親に紹介しようとした矢先だった。地震発生後、支店長の指示で支店屋上に避難し、津波にのまれたという。
 行方不明となった健太さんを、両親は女川町の浜で捜し歩いた。見つかったのは、半年余りが過ぎた11年9月26日。遺体は初月給であつらえたスーツ姿だった。
 「自分の判断で屋上に避難した結果なら仕方がないが、上司の指示には従わざるを得ない。仕事も結婚もこれからという時に、どれだけ悔しかったことか」。弘美さんは今も、健太さんの最期の思いに胸が詰まる。
 銀行側は2度、遺族向けに説明会を開いたが、田村さん夫妻らは納得できず、11年12月に家族会を結成した。その後、何度か銀行側と話し合いを持った。
 「なぜ近くの高台にある指定避難場所に避難しなかったのか」。遺族側の問いに、銀行は災害等緊急時対応プランに「指定避難所または支店屋上など安全な場所へ避難」とあることを強調。「支店長の判断はやむを得なかった」と繰り返した。
 銀行が12年3月に合同慰霊祭を開いて以降、話し合いの場は途絶えた。田村さん夫妻が再開を求めると、震災ADR(裁判外紛争解決手続き)のパンフレットを持ってきた。検証に必要と保存を要望していた支店の建物は、12年5月に取り壊された。
 「対話の道は絶たれた」。かつての息子の職場と争うのは決して本意でなかったが、「このままでは死が無駄になる」と他の2遺族とともに提訴に踏み切った。
 「12人は会社の指示で職務を全うし、亡くなった。原因をきちんと検証し、再発防止策を講じてほしい。人命を最優先する会社に生まれ変わってもらいたい」と孝行さん。それが、せめてもの健太さんの供養になると信じている。

[七十七銀行女川支店訴訟]震災発生時、七十七銀行女川支店では14人が勤務。支店長の指示で屋上に避難した13人が津波で流された。1人が救助されたが、12人が死亡・行方不明になった。支店から徒歩で数分の指定避難場所の高台に避難しなかったことを問題視する一部遺族との話し合いで、銀行側は「判断に誤りはなかった」と主張。行員ら3人の遺族は2012年9月11日、約2億3000万円の損害賠償を求める訴えを仙台地裁に起こした。


2013年09月08日日曜日


*健太君を探す時のご遺族の心情はいかばかりであったろうか。この古高野球部ブログでは、OBの同志として、健太君の死に深く追悼の意を表し、その悲しみの一端を永遠にご両親と分かち合っていく所存です。


それにしても、現役生、試合で新聞に載るような活躍を期待してるぜ!伝統ある古高野球部のユニフォームを着たら、とりあえず「勝て」




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